旧・めだか第一研究所

ゆるふわ嗜好×ゆるふわ思考×ゆるふわ試行

『天気の子』にはバニラトラックが必要不可欠だったという話

スネに傷をもつ女性、しかも自分がその片棒を担いでしまった女性に、ぼくたち男性はどのように向かい合えばいいのか。新海誠の最新作『天気の子』は、世界の分断が可視化された現代社会では、むしろセカイ系こそが大人になるために必要なことなのだと、バニラトラックで高らかに歌い上げた作品なのではないか。就職してから辞めていたタバコを吸いながら、ふと、そんなことを考えた。

以下ネタバレ注意。

素性を明かせない未成年が、清らかな身体を犠牲にして社会的役割と「高収入」を獲得する。その先には破滅が見えているけど、立ち止まった瞬間に破滅は訪れるから、このささやかな幸せを走り続けるしかない。

穂高くんは、陽菜さんがそうした水商売の道に行くのを引き戻したけれど、結果的には同じ、もしくはそれ以上に厳しい「水」商売へと引きずりこんでしまう。

バニラトラックをはじめとして、本作は序盤の評判がすこぶる悪いけど、ぼくはむしろ序盤のほうが好きだ。故郷を捨てて大都会に逃げた少年が、早々に現実に打ちのめされて街をさまよい、掃き溜めの片隅で野良猫と拳銃と優しい女学生に出会う。女学生は高架下のボロアパートに小学生の弟と二人で住んでいて、生活のため身体を売る仕事に引きずり込まれそうになるところで、偶然、少年と再開する。少年は女学生を助けるために拳銃をブッ放し、ギリギリで踏みとどまっていた一般社会から足を踏み外す。こうして出会った二人の男女が、社会の片隅で身を寄せ合うように、破滅の約束された、ささやかな幸せを積み重ねていく。

そんなコテコテのヤクザ系ストーリーを、感情やシーンを天気で表現するというコテコテの演出で描く。こう書くと薄ら寒く思えるが、実際に「晴れにする」という行為が物語に埋め込まれ、それが圧倒的な美術力で描かれるのだから敵わない。全編にわたり雨が振り続けている、という閉塞感がボディーブローのように効いてきて、コメディーパートも相あまり、彼らが一瞬だけ手に入れる半径1キロの幸せがあまりにも眩しい。

眩しいがゆえに、すぐさま降り出す雨が、一層と閉塞感を強めていく。

初めてのシゴトでは、優しいオジサンから「可愛いから」とボーナスをいただく。話題が話題を呼び、カレンダーは次々と「指名」で埋め尽くされ、最終的には高層ビルの最上階で浴衣姿を披露する女帝にまでに昇りつめる。一方の少年は、ペラペラの白シャツを着た月給三千円の穀潰し。エレベーターの扉が開く直前の、黒服の成人男性の横に立つ少年の、なけなしの金を握りしめた童貞感たるや筆舌に尽くしがたい。

だけど、シゴトが終わり、屋上で夜景を眺めて語らう二人は、どうしようもなく純粋な少年と少女でしかない。

社会に居場所のない若い男女が、それでも歯を食いしばって、寄り添いあい生きてゆく。世界のすべてが優しくないけど、大半は生きるのに必要な無関心があるだけで、別に誰もが誰かを傷つけたいわけではない。窓から空を眺めて「最近の子は異常気象で可哀想」と語る老婆は、雨雲の隙間からビル群に射す陽光に足を止める穂高少年の姿は見えない。そんなお天道様からは見えない半径1キロの幸せを、穂高くんは「足さなくていいから引かないで」と願ったけれど、彼らは大きなうねりから逃れることはできなかった。

通常のヤクザ系ストーリーであれば、二人はただ社会の荒波に押し流され、大きなものを犠牲に一筋の救いだけが残り、世界は何事もなく続いていく。しかし本作では、彼らを押し潰さんとする世界の命運を、彼ら自身が握っている。ベッドのうえで陽菜さんが見せた「汚れた身体」は、ただ奪われるだけの弱者のものではない。

しかし決して強者のものでもない。世界を救えるだけの、奪われる弱者の身体である。

世界を救うか、自分が生きるか。この問いに押しつぶされた陽菜さんは、答えを穂高くんに求めたが、少年はあっけなく「みんな」の答えを返した。そうして陽菜さんは、世界を救った。

世界を救うか、愛する人を救うか。陽菜さんを失った穂高くんは、平穏を取り戻した無関心な世界を走り抜け、後者を選びとった。そうして陽菜さんは蘇り、世界は崩壊した。

あれだけの豪雨であれば、きっと二桁以上の死人がでているだろう。穂高くんの選択を「セカイ系」と蔑むことはできるけど、その言葉が使われはじめた2000年代初頭とは、随分と「世界」も様変わりしたように思う。国家という枠組みは曖昧になり、大小様々な分断が可視化された2010年代の終わりに、ぼくたちは自分の生命と何を天秤にかければいいのだろうか。大人になるために「御社が第一志望です」と偽りの愛を語らなければいけない社会で、子供じみた純愛ゆえに社会を壊してしまうことを、ぼくたちはどう評価すればいいのだろうか。社会とはそもそも、半径数百メートルの隣人と、手を取り合うことではなかったのだろうか。

世界を救うか、自分が生きるか。

世界を救うか、愛する人を救うか。

二つの問いは「世界の命運と一人の生命を天秤にかける」という意味では同じだし、同じ選択は同じ結果を導く。だけど「私が生きていたい」と「君に生きていてほしい」は全く異なる結末を導く。

ラストシーン、崩壊した東京に向かって祈りを捧げる陽菜さんを見て、穂高くんは自分が「選んだ」ことを強く心に刻む。陽菜さん一人に「私が生きていたい」を背負わせず、穂高くんも「君に生きていてほしい」と引き受ける。世界の崩壊の責任を、生命が天秤にのらなかった穂高くんは背負うことはできない。だけど陽菜さんは、背負わずにはいられない。実際にどうして東京で雨がやまないかなんて、誰にもわからないから。

陽菜さんのために、具体的に何をすればいいかなんて、なんにもわからない。それでも、振り向いた陽菜さんは笑顔で、あまりに眩しい笑顔で、だから大丈夫なのだ。

背負えない穂高くんは、そうとしか言えないんだ。

スネに傷をもつ女性、しかも自分がその片棒を担いでしまった女性に、ぼくたち男性はどのように向かい合えばいいのか。

そんなこと、ぜんぜんわからない。陽菜さんは、三年も音沙汰のないうちに、もうとっくに折り合いをつけていて、いわば儀式として祈りを捧げていただけかもしれない。穂高くんとの再開を願っていたのかもしれない。決して幻想を抱くわけではないけれど、女性が驚くほどの強さをもって立ち直る姿を、ぼくは何度も目にしてきた。

もし、愛する人から突然「あたしバニラで高収入を稼いでたの」と言われたら、ぼくは笑えばいいのだろうか。就職してから辞めていたタバコを吸いながら、昇りくる月曜の朝日を眺め、ふと、そんなことを考えた。