めだか第一研究所

ゆるふわ嗜好×ゆるふわ思考×ゆるふわ試行

森羅万象 vs. ぼく/『死にがいを求めて生きているの』の感想

ぼくは多分、戦いたいんだな。

誰に何を言われたわけでもないのに、ふと自覚することがある。ちょうど体温と同じで、熱くも冷たくもない、輪郭の曖昧な闘争心。5W1Hがゴッソリ抜け落ちていながら、確かに自分を駆動させているコイツのことを、ぼくは心肺機能の一種だと捉えている。

そんなぼくの心臓を、朝井リョウ氏の新刊『死にがいを求めて生きているの』*1が鷲掴みにした。本書では、いつも等身大で落ち着いた智也と、何かと目立ちたがる雄介という二人の青年の関係性を通して、平成という時代の「対立」が描かれている。競争が排除され、個性が尊重される時代は、どうしてこうも生き苦しいのか。怖いもの見たさと、たどり着く答えの知りたさで、久しぶりに徹夜で読み切ってしまった。

物語の結末では、世界は互いに不都合なものに満ちていて、そうした相互作用と「対峙」する以外に道はない、という事実が提示される。この結末には膝を打った。競争が社会として排除されても、二人の人間が一つの椅子には座れない、という物理法則は変わらない。そんな他人がひしめき合う地球のうえで、ぼくたちは似通った価値観における行為の競争をやめる代償に、似通った行為による価値観の競争をはじめてしまったのだ。

いくらオンリーワンを叫んだところで、所詮は人間のやること。行為のパターンは限られているし、すぐに模倣されてしまう。だけど、行為の位置づけや紡がれる物語は、無数に生み出すことができる。君だけのオリジナルな人生を歩もう。監督・脚本・主演はすべて自分だ。

ただし、それ以外の全ては自分以外に依存している。当然ながら、誰も何をも言うことを聞いてくれない。オファーを出したら無視するくせに、呼んでもないのに来たかと思えば、こちらの撮影を邪魔するなと言う。いや、口にはだしていないけど、あの目や耳や態度や耳鳴りや匂いや法則は間違いなくそうだ。嗚呼、現代社会は、どうしてこうも生きにくいのだろうか…。

こうした苦しみの原因は「個人」という幻想にあるように思う。

肉体は他人から独立して存在している。よくよく考えると、単にこれだけのことが、個人という幻想を正当化していることに驚く。

個人という幻想を成り立たせるには、逆説的だが他人が必要となる。集団があるから個が定義できるのであり、他者と比較するからオンリーワンを示すことができる。個性的であることと没個性的であることは、どちらも他人に依存しているという意味では同じである。

点と点があると、その間を線で結ぶことができる。あるいは境界線を引くことができる。囲むこともできる。二本目を引いてもいい。どのような線を描くかは自由だし、目を閉じて大きく深呼吸をすれば、誰でも何度でも描き直すことができる。

たけど、点を打たないこと、線を描かないこと、そこに意味を見いださないことは、誰にもできはしない。自分には何もないと思うのは、単に「自分」の定義がおかしいからだ。

自己実現などとは言うものの、実際には実現が自己に先立つ。サーフィンをせずにサーファーとなることは難しいが、サーフィンをしていながらサーファーとならないことも難しい。そこには自分の行為や願望だけでなく、他者からの眼差しがあるからだ。

個人という幻想は、そうした動的な均衡として成立している。個人が対立を生みだすのではなく、対立が個人を生みだし続けているのだ。それは人間同士の対立だけではなく、自然や概念や機械や感情や天気や何やらとの対立でもある。公共の場では静かにしろなんて、馬鹿を言ってはいけない。地球はそもそもうるさくて、そんな混沌とした喧騒の一部として、ぼくたちは生きているんだから。

体温と同じ温度の闘争心。5W1Hがゴッソリ抜け落ちていながら、確かに自分を駆動させているコイツのことを、ぼくは心肺機能の一種だと捉えている。そうすることで、コイツは生きるための手段であり、目的ではないことを胸に刻む。価値ある人生を歩むことは、手段でも目的でもなくて、ただの結果なのだから。