めだか第一研究所

ゆるふわ嗜好×ゆるふわ思考×ゆるふわ試行

「再会」ではなく「再開」のバレエ・メカニック/映画『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』の感想

週末までズレこんだ仕事を切り上げて、ドタバタと地下鉄に乗り込む。そんな余裕はないと知りつつ、しかし忙殺される日々だからこそと、映画『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』を観てきた。

www.youtube.com

泣いた。前作『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』が微妙だったので、もういいかと思ったけど、行って良かった。悩んでいる方は、ぜひ劇場に足を運んでほしい。足を運んだ人は、ぜひ感想を読んでほしい。ちなみに「悩んでいる」は映画を観に行くかどうかではなく「この人生に」です。以下ネタバレ注意。

以前このブログで書いたように、TV版エウレカセブンは「甘酸っぱいボーイミーツガール」と「苦い植民戦争」の二つのテーマを少年少女の成長譚として描き切った作品だ。典型的なボーイミーツガールを描いていながら、恋愛パワーで世界を救う奇跡は描かれない。甘酸っぱいボーイミーツガールは48話「バレエ・メカニック」で頂点を迎え、最終回「星に願いを」では苦い植民戦争のビジネスライクな結末が描かれる。

inmecha.hatenablog.com

初代TVシリーズが公開されてから、すでに10年以上の月日が流れた。その間に、劇場版『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』や、続編『エウレカセブンAO』を初めとして、エウレカセブンには様々な派生作品が制作された。ファンが作成した二次創作や、ノートに殴り書きされた妄想まで含めれば、そこには無限に分岐するエウレカワールドがある。

それらは俗に「IF」の物語と呼ばれる。もしゲッコーステイトが未来をねだるなら。もしエウレカの子供が地球で生きていけないなら*1。もし初めからレントンビームス夫妻の養子だったら。

本作『ANEMONE』は、TV版の第48話バレエ・メカニックの「IF」である。

だが、甘酸っぱいかと言われると、そんなことは一切ない。

エウレカアネモネ、二人の愛した人は、すでに死んでいるからだ。

IFの物語のうち、甘い理想を突き詰めたものは「夢」物語と呼ばれる。もし戦争のない世界で生きていたら。もし叶わない恋が成就するなら。もし死ぬはずの人間が、生きていてくれたなら。

これは「夢」ではない現実の「IF」の物語だ。それを明確に示した、というかエウレカセブンとは元々そういう物語だと思い出させてくれたのが、本作『ANEMONE』だった。

もしまた今度生まれてくることができたなら、今度はもっと、器用な人間に生まれて来たいな。もう、どうしようもないのにね。何だか自己嫌悪。

だから、ぜんぜん器用じゃない。笑顔、引きつってるし。

もし、誰も傷つけずに生きていいと言われたら、風にそよぐ髪を束ね、大きな一歩を踏みしめて、胸を張って会いに行こう。

死んでる。ドミニクに至ってはAIだし。

TV版のバレエ・メカニックは、離れた二人が現実に抗って「再会」する物語だった。そのIFである本作は、死別という抗えない現実を受け入れて、二人の少女が「再開」する物語だ。TV版では「だって苦しいの!あの人がどこにもいないの!」と叫ぶアネモネに対し、エウレカレントンと手を繋いで「きっと伝わるよ」と背中を押した。対して本作では、様々な人に未来を託されたアネモネが、孤独なエウレカを救いにゆく。

本作の最大のポイントは、そんなアネモネの設定が、TV版とは全く異なることである。主人公である石井・アネモネ・風花は、TV版のアネモネと比べて、エキセントリックさが薄い。表面上は大人びて安定していて、エウレカの代用品として作られたゆえの空虚さではなく、過去をもつ人間らしい苦しみを抱えている。担当声優の小清水亜美氏の言葉を借りるなら、抱えている「痛み」の質が全く異なる。

小清水:テレビシリーズでのアネモネは、情緒の不安定さが際立っていたと思うんです。安定感がなく、いつも感情の起伏が激しい。そして、それすらも心の痛みとして感じてしまう。だから、常に苦しくて……。「本当はそんな生き方をしたかったわけではないのに、そうなってしまってどうしよう」ともてあましている感じが常にあります。物語のラストまで言葉に出しませんでしたが、「誰か助けて」とずっとSOSを発し続けていたのがアネモネでした。戦い方も刹那的で「戦いの中で死んでしまえば楽になれる」とすら考えるくらい追い詰められていました。
一方、「ANEMONE」のアネモネには、情緒の不安定さにつながるような苛烈な生い立ちはなく、大好きなお父さんがいなくなってしまったことで、心を閉ざしている。テレビシリーズのような起伏の激しさではなく、表に出てくる部分としては振り幅が狭く、実年齢よりも大人びて見えてしまうという感情の表れ方で、“痛み”の質が違っています。背伸びをして、大人になろうとして“自分の力だけで生きていかなくちゃいけない”という、ある意味ではより現実的な“痛み”を抱えているんです。作中では、そんな彼女がエウレカと出会うことで感情を発散できるシーンもあり、それがなければ、目に見えないかたちで壊れてしまっていたのではないかなと思います。本当に感情を失って、何をしても何も感じなくなってしまっていたかもしれない……そんな危うい境界線の上にいましたね。
「ANEMONE/エウレカセブン」小清水亜美、長年の夢が実現 アネモネとエウレカは大親友になれたはず : ニュース - アニメハック

現実感のある痛みを抱えたアネモネが、空っぽのエウレカを助ける。これが本作の「IF」である。単純にバレエ・メカニックの配置が逆転しているのではなく、エウレカアネモネの置かれた環境や条件が大きく変化している。

公式コラムで藤津亮太氏が書き記しているように、HE1は時間軸を前後しながらレントンの物語を語る「水平移動の映画」であり、HE2は世界線を上下しながらアネモネの物語を語る「垂直移動の映画」である*2。どちらも画面サイズの差異を巧みに利用して(あえてTV版ぽい新作カットも用意して)TV版とは異なる時間や世界を行き交い、それが一つの作品として構成されている。

世界の分岐は選択の結果だけど、選択は所与の条件や環境に制約され、結果は運や偶然に左右される。こうした無数のIF構造に、アドロックの「ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん」という未来に向けた言葉を当てはめると、むしろ「勝ち取れないものは与えられない」という現実が浮き彫りになる。2人なら1つのパンを分け合うことはできるけど、100人いれば殺し合うしかない。それが植民戦争や「共生」における現実的な問題であり、エウレカセブンではクダンの限界という物理法則で明確に示されていた。衣食住どころか、目覚めることも、夢をみることも、他者の排除なくしては与えられない。そして死んだ人間は生き返らない。

ゲッソリするけど、救いの言葉だと思う。直視しなければいけない現実は、往々にして辛いけれど、そこには必ず託された何かがある。100人分のパンがないからこそ、僕たちは誰かを選び、誰かに選ばれて生きていく。あるいは誰かを選ばず、誰にも選ばれずに死んでいく。そうした無数の選択と、何十倍もの選択されない未来を経て、世界は複雑怪奇に進んでいく。

物語のラスト、悪態をつきながら手を携えて、永い永い「夢」から抜け出すアネモネエウレカ。吹き飛ばされそうな風の中、必死に伸ばした手の先に、TV版の愛する人はいない。だけど、そこにはTV版にはいない、等身大の友達がいる。勝ち取れない未来は与えられないが、勝ち取れないからこそ勝ち取れる未来もある。それこそが「IF」の醍醐味ではないだろうか。

本作は二人の少女が「再開」する物語だ。抗えない過去や現実を歪め、理想の「再会」を選ぶことなく、無数の誰かに選択された世界が続いていく。そのつながりは地球規模では誤差にすぎなくて、結局は大きなうねりに飲み込まれるのかもしれない。だけど、小さな人間が自分の存在を位置づけるには大きすぎて、だから辛くとも現実に目を向ければ、僕たちは何度でも自分を再開できるはずだ。

今日もまた明日がやってくる。もちろん仕事は終わっていない。もし映画を観に行かずに取り組んでいれば、なんてのは「夢」物語だ。だけど人生に「IF」はある。バックレて映画を観たからこそ、現在の自分を冷静に見つめられて終わる仕事もある。これは全くの勘であり、僕の勘はよく外れるが、きっと大丈夫だ。徹夜でブログを書いている時点で冷静ではないが、きっと大丈夫だ。そろそろ筆を置いて仕事を再開しよう。大丈夫。レントンも生きてたことだし。掴み取れこの手にGlory Days。HE3も楽しみにしてます。

*1:一つの物語が完結していれば、続編も広義には「IF」の物語だと僕は思う。

*2:コラム | 映画『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』