めだか第一研究所

ゆるふわ嗜好×ゆるふわ思考×ゆるふわ試行

セミの一生 #転詞

幼虫として数年を地中で過ごし、ようやく羽ばたけた地上では、一ヶ月足らずで命を散らす。そんなセミの一生をどう捉えるかというのは、簡単なようで悩ましい問いである。

生きた時間の長さで考えれば、セミの一生は、ほぼ幼虫である。それならと地中にマイホームを買い、地上に出ることなく一生を終えるのも、悪くない選択だろう。

だけど、その家には自分しかいなくて、系譜はそこで途絶えてしまう。だからこそと地中では糊口をしのぎ、地上に出てからパーリナイするのも、またセミの一生である。

あるいは、人間には認識できない第三形態があるとしたら、セミの一生について考えを改める必要がある。その第三形態の寿命が、何年なのか何日なのか何分なのかは知らないけれど、少なくとも生命の循環から離れていることは確かだ。

そして、もしセミに死後の世界があるのなら、一生という言葉の意味が崩壊する。セミの一生とは、地中での生活でもなく、地上での繁殖でもなく、別次元での何かですらない。それはただ単に、永久に続く世界での在り方を決める、神様のテストである。

セミの一生をどう捉えるかというのは、簡単なようで悩ましい問いであり、同時に詮ないことでもある。

ジョン・メイナード・ケインズの言うように、長期的にはわれわれはみな死んでいる。だけど短期的で瞬間的な現在を、死なないために生きている。それを一人の生命に帰することも、生物としての本能と言い捨てることも、修行のプロセスと位置づけることも、崇高な人間讃歌を謳うことも、セミの一生を考えることに似ている。

しかし、セミの一生をどう捉えるかという問いかけは、決して回答者の人生観を映し出す鏡にはなりえない。

なぜなら、人生という言葉は、他人のための言葉だからだ。

だからこそ、生きている人間は、人生を考えてはいけない。それでも考えてしまうのは、ままならぬ人体の不思議である。もしかしたらセミも、あんな風に鳴きたくなんて、ないのかもしれない。