Space Run-A-Weblog

宇宙逃避航海日誌

昭和 #転詞

気がつけば2月も中旬にさしかかり、平成29年という文字列にもすっかり慣れてしまった。カチリカチリと前に進む年月は、一つまた一つ、こうして現在という瞬間に溶け込んでいく。だけど、道路の先から振り返ってみれば、平成という時代は一歩ずつ終わりに近づいている。

そんな平成の彼岸が見えはじめた折、なんの因果か、久しぶりに「昭和の隣人」に憧憬を抱く方に出会った。見知らぬ子供でもキチンと叱るような、悪い言い方をすれば”昭和の頑固オヤジ”を好ましく思う、まず間違いなく現代社会に一家言あるような、そんな昔気質な人だ。

ぼく自身は「昭和の隣人」に正座させられ説教されるような人間なので、どこまでもポジショントークでしかないのだけど、社会システムとして「昭和の隣人」を組み込むことは、三つの観点から好ましくないと考えている。

第一に、システムの観点から、期待値が低すぎる。ぼくたちの脳は一定の年齢を超えた瞬間から衰退がはじまるのであり、当然ながら”瞬間的な判断”に対するエラー率は向上していく。また判断の依拠するデータも、一つずつ忘却され断片化していくし、新しく上書きすることは困難で、現在とのズレも大きくなるのだから、年老いていくごとに質が低下していくことは自明だ。卑近な例だとインターネットに対する見解がそうで、インターネット=Google検索でしかないインターネット論の妥当性は、時間とともに希薄になっていかざるをえない。それは「空気はけしからん! 呼吸している人間は、戦争を起こしているじゃないか!」くらい支離滅裂なことで、その”瞬間的な判断”はたまに正解はするけれど、その一時点だけ取り出して是非を語るのは不合理であり、時間軸での繰り返し試行を考えると、あまりに期待値が低すぎる。

とはいえ、それは”瞬間的な判断”であって、そこから続く「いいか戦争はな…」みたいな話や知見には学ぶことが多い。それが老人の”蓄積された経験”に学ぶということなんだろう。

閑話休題。第二の観点として、行為主体としての「昭和の隣人」を考えると、健康への悪影響が大きすぎる。ぼくは医学の専門家ではないので、あまり深くは語らない(語れない)けれど、高血圧は肉体的に良くないし、怒りのエクスタシーがクセになるのは精神的に良くないよね。

第三に、受益主体として「昭和の隣人」の隣人(=人によっては貴方)を考えると、その心には俗悪卑劣が蔓延ることになる。純粋に個人の問題として捉えてほしいのだけど、いわゆる「昭和の隣人」による社会正義の執行を求めることは、自分の内的倫理をノーリスクで世界に押しつけることと同じではないだろうか。もちろんその同一性を突き詰めていくと、弱肉強食じゃねーか末法じゃねーかとなるので人為的なシステム(=体制)は必要なのだけど、先に述べたように「昭和の隣人」は社会システムとしての欠陥が大きすぎる。

それでもある人が「昭和の隣人」を求めてしまうのは、ままならない世界と理想のズレに対し、苦々しい思いを抱いているからだろう。それは誰だってそうなのだけど、その執行ないし解決の一形態として、理想化された「昭和の隣人」は存在するのだ。

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でも「昭和の隣人」を求める人の根底にあるのは、駅で大騒ぎする若者と日本男児のズレではなくて、そこで口を噤んで通り過ぎるしかない自分自身と「昭和の隣人」のズレかもしれない。あるいは「昭和の隣人」であった父親とのズレかもしれないし、そうあってほしかった父親とのズレなのかもしれないし、最初から父親なんていないからこそのズレかもしれない。そして、そうした極めて個人的な問題だからこそ「昭和の隣人」は社会システムとして組み込まれるべきではないのだ。

そんなことを考えながら、その人の言葉に耳を傾けていたら、去り際に「やっぱ”明治”時代の大人はさ…」だって。えーー!!

道路の先から振り返ってみれば、平成という時代が終わりに近づいているのが見える。すでに終わってしまった時代の切れ目は、もう此処からは見えやしない。でも、それを眺めて笑うぼくの背後には、新しい時代が続いていて、きっといつかこの場所も、水平線の彼方に消えてしまうんだろう。

まぁ、そのときはそのときで、太陽を背にして「平成だよーー!!」なんてSayしてJumpすればいいのかな。老体に鞭打って。