ゆるふわ髄想録

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運命とかいいから一緒にカレーを食べよう/『輪るピングドラム』の感想

ガタンゴトンと音を立て、のどかな田舎道を駆けていく鉄道。その車窓から望む地平に、夜空に輝く星の大海を重ねてみよう。それはとても美しいけれど、この世のものとは思えなくて、ふいに心がざわつく。

では、どうにもままならない人生を、運命というレールに重ねてみよう。車窓からはなにも見えないし、乗客は自分ひとりだけ。それはとても悲しいけれど、ぼくたちはみんな、孤独に生まれて死んでいくのかもしれない。

銀河鉄道の夜』と『輪るピングドラム』は正反対の物語だ。その心は、前者は現実のレールに幻想世界を重ねていて、後者は現実世界に幻想のレールを敷いている、という点に尽きる。

カンパネルラは自分の生命と引き換えにザネリを助けることができたけど、冠葉はどうあがいても陽毬を助けることができなかった。そりゃそうだ。カンパネルラはたまたま帳尻が合っただけで、逆に言えば、たまたま死んでしまっただけなのだから。過去という確定したレールの上で起きた現象が一対一なだけで、サヨナラの旅で語られる言葉や倫理や論理は全て幻想にすぎない。

だから冠葉の犠牲は”実”を結ばない。現実はどこまでも現実で、彼の望む終着駅は幻想の中にしかない。

だけど冠葉は覚悟を決めて、不可能を認めないゆえの可能性に賭け、ドッカンドッカン他人を殺して進んでいく。でも皮肉なのは、自分がすべての罪を背負う、ということすら幻想だってことだ。人間は肉親だろうが他人の罪を背負うことはできないし、背負う必要なんてないし、背負うべきではないのだけど、それでも背負わずにはいられない。ぼくたち視聴者は「えぇんや、晶馬くん、ぜんぶ忘れて、苹果ちゃんと幸せになりぃや」と思うのだけど、晶馬はいつまでも苦しみ続ける。

それもまた、運命というレールという幻想なのだけど、そんな簡単には吹っ切れない。錯視だと頭では理解していても、現実はどう見ても下の線のほうが長いんだから。

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じゃあ”愛”も幻想なのかと問われるだろうが、その答えこそ、本作で一番ぼくが語りたいことでもある。それはすなわち「ピングドラムとは何だったのか?」という本作最大の謎に対する答えでもある。

答えよう。ピングドラムとは、愛であり、作中で描かれるリンゴのことである。

わけないでしょ、バーカバーカ。

失敬。気を悪くしないでいただきたい。別に貴方を馬鹿にしているつもりはなくて、ぼくはただ、ピングドラム=愛=リンゴ、として完結した作品世界(≠制作陣)に対してバーカバーカと叫んでいるのだ。

先述したように、カンパネルラが生命と引き換えにザネリを救えたのは、良くも悪くも偶然にすぎない。すなわち、生命やら愛やらを”渡した”というのは幻想にすぎないのだ。

君と僕はあらかじめ失われた子どもだった。でも世界中の殆どの子ども達は、僕らと一緒だよ。だからたった一度でも良い、誰かの「愛してる」って言葉が必要だった。例え運命が全てを奪ったとしても、愛された子どもは、きっと幸せを見つけられる。

多蕗桂樹/『輪るピングドラム』第24話「愛してる」

本作に登場するキャラクターは「愛されなかった」とか「何者にもなれない」とか、全員がどうにもままならない人生を歩んでいる。だけど、陽毬を「愛している」がゆえ傷ついていく冠葉、彼らを助けるために「立ち向かう」真砂子や苹果、最後に苹果に「愛している」と伝えた晶馬、その現実の行為に対して、ぼくたちはオイオイ泣いてしまう。そこでは「愛されなかった」とか「何者にもなれない」とか、そんな過去や未来という幻想レールはどうでもいいのだ。

ピングドラム=愛=リンゴ、なんて定義してしまうから、そこにモノとしてのパレート最適が生じてしまう。そして本作がどうしようもないのは、その均衡ないし財空間を幻想と断じることなく、逆に現実世界の方を作り変えてしまったことだ。苹果ちゃんが口にした「運命のリンゴを一緒に食べよう」は間違いなく”呪文”だった。そのせいで運命の列車に乗り換えが起こり、晶馬の身体は蠍の炎に包まれてしまったのだから。

そこは「運命とかいいから一緒にカレーを食べよう」だろうが! バーカバーカ!

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