Space Run-A-Weblog

宇宙逃避航海日誌

人畜無害 #転詞

形容詞は部分集合をつくりだし、ぼくたちの意識を具体に狭める。例えば「赤いキャンディー」という言葉は、単なる「キャンディー」よりも生々しいイメージをもたらす。

だけど、形容詞が二つ以上あると、むしろ補集合が想起されることがある。「赤いキャンディーは美味しい」という言葉が脳内を走ると、赤いキャンディーの背後に、緑色でマズいキャンディーや、黄色くて美味しいキャンディーなど、無限に広がる「キャンディー」空間が垣間見える。

そうした語られぬ抽象空間に思いを馳せてしまうのは、おそらく、自分のイメージとのズレがあるからだ。そして、そのズレが大きければ大きいほど、意識は語られた部分集合から離れてしまう。例えば「赤いリンゴは美味しい」と「紫のリンゴは美味しい」では、文章構造は同じはずなのに、思考の方向性は全く異なる。それとは逆に、例えば「赤いシャツは綺麗」と「青いシャツは綺麗」では、どちらも思考は部分集合へと向かう。

では、形容詞を無限に重ねていくと、どんなことが起きるのだろうか。その答えはまだわからないけれど、ぼくたちが特急列車に乗り込んでしまったことは確かだ。

デジタルアイデンティティ
人を含めたエンティティは、実態として存在し、その実態を表す様々な「属性」によって形成され、識別されます。エンティティを形成する「属性」は、エンティティを定義する人によって異なる「属性の集合」となり、ひとつのエンティティに対して異なるアイデンティティ情報が形成されます。 f:id:inmecha:20180122000031p:plain
文章:IPA(2013)「アイデンティティ管理技術解説 -ドラフト-」(p.5)
画像:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/38/Identity-concept.svg/1280px-Identity-concept.svg.png

構造としては同じなはずなのに、何故だか「あの人は人畜無害だ」と「あの機械は人畜無害だ」では、正反対のイメージが浮かびあがる。もちろんそれは、人間と機械の差異に起因するのかもしれないけれど、ぼくは「人畜無害」という言葉自体が”転び”だしているように思う。

膨大なデータ(種類×規模)で塗り重ねられたデジタル世界には、きっと「人畜無害」なんて部分集合は存在しない。デジタル世界にあるアイデンティティは、人間と畜生だけじゃないし、世界に影響を与えないエンティティなんて存在しないからだ。部分集合と補集合の和としての全体集合を、所詮は世界の部分集合として多次元に包摂していくのが、デジタルのパラダイムなんだろう。

そうした世界観に立脚すると、これから数十年の時間尺で、無数の言葉たちが”転び”だしていくのは間違いない。それが楽しみではあるけれど、一方で、言葉の役割がゴッソリと削られていく虚しさもある。だけど例えば、長々とディスクレイマーを書くのを辞めて、最初からアルゴリズムでフィルターするという選択は、問題点はあるけど理には適ってる。そうした歪みに新たな楔を打ち込むのは、旧来の「言葉」ではないんだろうなぁ。