めだか第一研究所

ゆるふわ嗜好×ゆるふわ思考×ゆるふわ試行

すべてのビデオゲームはRPG(Role-Playing Game)である

ビデオゲームについて語ることは、雲を掴むことに似ている。ぼくは雲を見ることができるし、どんなものか説明できるし、思いを馳せることもできる。だけど、手ざわりを感じるために掴もうとすれば、雲は立ちどころに霧散してしまう。

キャラクターとアバターインタラクティブ、受動と能動、学習と快感、システムとナラティブ、などなど。ビデオゲームの特徴を表す言葉や概念はたくさんあるけれど、どうにも収まりが悪く気持ち悪い。同じことを異なる言葉で説明しているようでいて、いざ正面から向き合えばうまく接合できず、なんだか掴みどころがない。

そこで今回は、ビデオゲームに纏わる諸概念を丁寧に解きほぐし、一つの理論体系に統合することを試みた。その終着点が、タイトルの「すべてのビデオゲームRPGである」だ。

だけど、この結論はそんなに重要ではない。本エントリの目的は、ビデオゲームに関する論考について「それって○○だよね」と言うときに、抜け落ちてしまうものや不純に混ざってしまうものを、とにかく取り除いて整理して深く掘り進める過程にある。ぼくはゲームクリエイターではないし、ゲームに携わる仕事もしていないし、なんなら年間でも数本程度しかプレイしない駄ゲーマーだ。だから、実態と著しく異なる記述や、論理の飛躍があるに違いない。コメント等でご指摘いただければ、このうえない喜びである。

 

インタラクティブ」を考える

ビデオゲームに纏わる諸概念のうち「インタラクティブ」ほど厄介なものはない。ビデオゲームは様々なインタラクティブで満ちている。右ボタンを押せばマリオが右に進むのもインタラクティブだし、選択肢に応じてストーリーが変化することもインタラクティブである。

しかし、そもそもインタラクティブとは何なのだろうか。インタラクティブという抽象概念は、わかりやすいが明確ではなく、例示は簡単だが網羅的ではない。

インタラクティブの語源は、inter-activeである。接頭辞interは「関係」であるから、インタラクティブとはふたつのactiveを前提とした関係を表している。では、activeという形容詞は何か。それは「物理配置が変化している状態」だと解釈できる。例えば、ヒトが歩くときには、足や身体の物理配置は常に変化し続けている。このとき足や身体は"active"である。

ゆえにインタラクティブとは「物理配置が変化している状態Aと、物理配置が変化している状態Bが、関係していること」と定義できる。シンプルに「Bの変化がAの変化に影響を受けること」と書いていないのは、それらしく哲学ぶりたいからではなくて(ではなくて!)因果関係を仮定せず、より一般化して考えるためである。物理配置が変化している状態とは、あくまで現象の外形であり、変化をもたらす要因とは独立に記述できる。

では「関係していること」とは何か。ぼくには「精神/物理」と「記号/意味」の二つの軸がみえた。以下、ヒーローショーの応援を具体例として解説する。

ヒーローショーの終盤、巨悪の前に倒れたヒーローに対し、子供たちが「がーんばれー!!」と声援を送ることで、力を得たヒーローが必殺技を繰り出し、怪人を灰燼に帰す。この一連の流れには様々なactiveがあり、どこまでも細かく見ることはできるが、一例として「応援する」と「必殺技を出す」というactiveを抜き出して分類してみた。

意味 記号
精神 応援でパワー送ると、受信したヒーローが必殺技を撃つ 応援すると、ヒーローは必殺技を撃つ
物理 子供たちの応援を受け、最後の力で必殺技を撃つ 応援パートの次に、必殺技パート

精神インタラクティブは予測と解釈のインタラクティブであり、物理インタラクティブはシステムに規定されたインタラクティブである。「精神/物理」の軸は、無数のインタラクティブを見いだす主体と、一つしかないシステムの間のズレを表している。

このヒーローショーのワンシーンが映画であればどうだろうか。無垢な少年には申し訳ないが「応援する」と「必殺技を出す」の間には、いかなる物理インタラクティブも存在しない。映画は観客の「応援する」に関わらず進行し、シーンの時間がくれば「必殺技を出す」からだ。しかし、精神インタラクティブは存在しうる。たまたま「応援する」と「必殺技を出す」が連続すれば、そこに少年はインタラクティブを見い出しうる。

意味インタラクティブはコンテキストのあるインタラクティブ、記号インタラクティブはコンテキストのないインタラクティブである。「意味/記号」の軸は、インタラクティブを見いだす主体が、そこに意味を見いだすか否かのズレを表している。

ある主体がインタラクティブを予測するとき、そこに何らかの意味解釈があれば精神×意味インタラクティブとなり、全く無ければ精神×記号インタラクティブとなる。例としては不適切だが、宗教観に根ざした天動説が精神×意味インタラクティブ、無垢に夜空を見上げたときの天動説が精神×記号インタラクティブである。

システムに規定されたインタラクティブは、まさしく物理×記号インタラクティブであるが、そのシステムを規定した主体の世界観が反映されている場合、一部ないし全部が物理×意味インタラクティブとなる。物理法則に物理×意味インタラクティブは存在しないが(ぼくは無神論者である)ビデオゲーム内での物理法則には物理×意味インタラクティブが存在する。後者にはシステムを規定した人間が存在するからだ。

以上が「精神/物理」および「意味/記号」の2軸によるインタラクティブの分類である。だが、これは"inter"の外形的な分類であり、"active"を所与とした話である。

そもそも何故ビデオゲームは楽しいのだろうか。何故プレイヤーはそれを行うのか。楽しいと思う行為とは何か。

次節では、ロジェ・カイヨワの理論を元に「遊び」という行為を解きほぐしてみる。

 

「遊び」の理論をレビューする

カイヨワ(1990)は「遊び」を「規則の体系」と喝破した。

すべて遊びは規則の体系である。規則は、何が遊びであり何が遊びでないか、すなわち、許されるものと禁じられるものとを決定する。この取りきめは恣意的であり、同時に強制的であり、決定的である。それは、いかなる口実があろうと破られてはならない。もし破られるなら、遊びは即座に終わり、違犯という事実そのものによって破壊されてしまうのだ。なぜなら、遊ぼうという欲望、つまり遊びの規則を守ろうという意思によってだけ、規則は維持されているからである。(p.17)

こうした行為の集合から規則の体系への視点の転換は「ある行為が遊びか否かは、物理空間における行為それ自体の外形ではなく、遊びという抽象空間との関係性により決まる」と解釈できる。前節では"active"を「物理配置が変化している状態」としたが、あるactiveが遊びか否かは、抽象空間を考えなければ判断できないということだ。

しかし、抽象空間とは実に奇妙な概念である。第一に、そんなものは実在しない。ある行為を抽象空間のなかで捉えることはできるが、ぼくたちは抽象空間のなかで行為を行うわけではない。あらゆる行為は物理空間に紐付いており、それは思考や感情すらも例外ではない。だが第二に、抽象空間はぼくたちの行為の意思決定に影響を与える。それこそが規則と呼ばれるものであるが、しかし規則と抽象空間は同一視できるのだろうか。規則と抽象空間はどのような関係にあるのだろうか。

ぼくは規則を「物理空間と抽象空間をつなぐ関数」だと考える。二つの空間は互いに混じり合うことなく存在しているが、空間の外壁が相互に”へばりつく”ような形で隣接している。物理空間から捉えた抽象空間は歪んでいるが、同時に抽象空間から捉えると物理空間の方が歪んでいる。この空間のへばりつき方を決めるのが規則であり、規則を通してのみ二つの空間は互いに影響しあう。

では、どのような「関数」があるのだろうか。カイヨワは「遊び」を外形的に定義するだけではなく、本能の充足形態に基づく区分と、衝動と理性を対置した軸を用いて、具体的な遊びの分類も行っている。

本能の充足形態に基づく区分とは、①アゴン(競争:すべて競争という形のとる一群の遊び)②アレア(偶然:遊戯者の力の及ばぬ独立の決定の上に成りたつすべての遊び)③ミミクリ(模倣:その人格を一時的に忘れ偽装し捨て去り別の人格をよそおう遊び)④イリンクス(眩暈:眩暈の追求にもとづくもろもろの遊び)――の4つである。例えば、アゴンにはスポーツ、アレアにはギャンブル、ミミクリにはごっこ遊び、イリンクスはジェットコースターなどが分類される。

衝動と理性を対置した軸とは、パイディア(遊戯:気晴らし、騒ぎ、即興、無邪気な発散といった共通の原理)と、ルドゥス(闘技:恣意的だが強制的でことさら窮屈な規約)の二極である。上記の4つの遊びは、この軸により更に細かく分類される。例えばアゴンの遊びであれば、取っ組み合いはパイディア側、スポーツはルドゥス側に分類される。

当エントリにおいて重要なのは、カイヨワの遊びの区分が本能の充足形態に基づいており、それらの原始的な発露が極めてパイディア寄りであることだ。本能は物理空間に根ざしており、行為もまた物理空間に根ざしているが、本能の発露は次第にルドゥスに寄ることになる。すなわち、物理空間の「歪み」からはじまる遊びが、次第に物理空間と抽象空間をつなぐ規則の”厚み”ないし"広さ"を増大させ、抽象空間の「歪み」が逆流する構造をもつということである。

こうした遊びにおける規則と行為の関係性については、石幡(2012)の「game」と「play」の概念的区別がわかりやすい。また、石橋(2012)の依拠しているジャック・アンリオの「遊び」概念については、加用(2013)の批評が重要な視座を与える。以下、少し長いが順に引用する。

「遊ぶ(play)」という行為を、「遊び(game)」とは区別すべきだと考えている。「遊び」とは、けん玉、しりとり、ままごと、工作などのように、その様々なやり方を抽象して、共通の構造のみを表した概念である。対して、「遊ぶ」ことは、その「遊び」にどう関わるかという「遊び」の構造の「使用法」を意味する(※1)。あるいは、このようにも言えるだろう。「遊ぶ」という行為は、「遊び」のヴァリエーションを作り、その構造に「ずれ」を持ち込むことである(※2)、と。

※1 アンリオは、「遊びは何よりもまず、遊び手とその遊びとのあいだに存在する遊びによって存在する」と述べている。筆者の考える「遊び(game)」とはアンリオの「その遊び」であり、「遊ぶ(play)」とは「あいだに存在する遊び」である。参考:ジャック・アンリオ. 『遊び―遊ぶ主体の現象学へ』 (白水社. 2000.)
※2 したがって、言葉で記述しようとすることは、微細なヴァリエーションを含む行為を、ひとつの単語に回収することであるから、本質的には、遊ぶ(play)の遊び(game)化を免れない。

 

一読して分かるようにこの定義では遊び規定が2面的になっている。全体としての行為あるいは活動を指しているのか、それとも「あいだに存在する」とされる遊び部分を指しているのか、規定的に2面的なのである。遊びはある種の活動を刺すのだろうか、それとも活動内に含まれる特殊な要素そのものを指すのだろうか? …(中略)… テニスコートでプレイにふけっている人たちの活動全体が遊びなのか、最中に垣間見せる真剣な集中的態度や、あるいはときおり飛び交う笑いや冗談のやりとり、そしてお互いの失敗への笑い合いなどの個々の態度的要素を遊びと呼ぶべきなのか?(pp.68-69)
間に在るとされる「遊び」とはいかなるものか? …(中略)… 第一は遊び手と対象の間の距離の問題であり、第二はアンリオ自身の用語ではないが両極性の問題である。 …(中略)… たとえば「模倣」では、模倣の遊びのようなものがあったとしても、それが完全なコピーになっていたらもはやそれは遊びではない。対象そのものとなってしまう。 …(中略)… まったく模倣になり得ていない極と完全なコピーである極、遊びはこの両極の間に成立するのであって、完全なコピーにはならないようにしているのが主体と対象の間に成立する距離なのだ。これがアンリオの遊び= 距離論である。(p.80)

従来の「遊び」の論説に対して石橋(2012)は、「game」は「play」の形式を一定範囲で制約するが、反面で「play」は「game」にズレを生じさせると主張した。また加用(2013)の解釈は、石橋(2012)の言う「play」そのものに、本能の両極に対する自由度が内在している、と読み替えることができる。

だが、活動論か要素論かは、単一の抽象空間を仮定するがゆえの問題にすぎない。先に述べたように、ある行為を特定の抽象空間で捉えうる場合に、それは「遊び」と呼ばれるのである。したがって、ある「game」における行為が「play」である以上、行為を起点に考えれば一つの行為に対して複数の「play」が存在しえる。活動-要素論は、複数の「game」の包含関係の表現にすぎない。

これを拡張すると、一つの行為を捉えうる、無数の抽象空間と相対すことになる。ある「play」はどこまでも細かな「game」に分割可能であり、果てなく大きな「game」に拡張可能でもある。それだけでなく、行為そのものは「game」ではない抽象空間でも捉えうる。こうした多元的な世界のなかで、ぼくたちは何に立脚すればよいのだろうか。

そこで次節では、個人の「情報負荷」と遊びの面白さの関係性を考察した小川(2003)をもとに、ぼくたちは何故ある「遊び」を選択するのか、あるいは最適な「遊び」とは何かを探ることにする。そろそろ疲れてきたかもしれないが、そろそろ結論なので頑張ってお付き合いいただきたい。

 

「遊び」を情報負荷から考える

小川(2003)は、ホイジンガやカイヨワの遊びの研究を参考にしつつ、エリスの最適覚醒の理論およびチクセントミハイのフロー理論を元に、個人に荷される「情報負荷」の観点から「遊び」の面白さを考察している。以下、まずはふたつの理論の概説を引用する。

生活体は、行動が成立する活動レベルに応じて、かろうじて覚醒している状態から極度の興奮までさまざまな段階がある、そして、このそれぞれの段階を覚醒水準(arousal level)と呼ぶ。この覚醒水準に関して、個人は個人にとって居心地の良い、収まりの良い覚醒水準をもっており、この居心地の良い覚醒水準を最適覚醒水準と呼ぶのである。/このことを前提として、エリスは、この最適な覚醒水準をもたらしうる、もたらしそうな刺激は、個人にとって「面白さ」を感じることができる、というのである。(p.103)

 

(フローとは)ある物事に集中しているときに、楽しさゆえにそれに完全にとらわれ、他のものごと、雑事、雑音、時間の経過をも忘れさせるほどの状態を言う。そしてそれゆえに、フローは、あるものごとに没入するという経験を通じて、私たちの生活に「意味づけ」と「楽しさ」を与えるのである、とチクセントミハイは言うのである。(p.106-107, 丸括弧内筆者)
チクセントミハイは、フロー活動とは行為者の技能に関して最適の挑戦を用意している活動のときに生じるという。 …(中略)… 技能が、それを用いる機会よりも大きいときには退屈状態が生ずる。技能の挑戦にたいする比率が大きすぎると、退屈は次第に不安へと移行する。(p.107)

小川(2013)は、楽しさの源泉に関するエリスの理論(適度の情報負荷がもたらす最適覚醒)と、チクセントミハイの理論(最適な挑戦の機会がもたらすフロー状態)を、情報量と情報の質の関数である「情報負荷」の概念を用いて統合した。最適覚醒水準の追求も、フローの追求も、情報負荷の増減によりなされる、という整理である。

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情報量とは、いわゆる最小単位ビットで表される量である。 …(中略)… 単純に言えば、情報量が増えれば、個人にとっての情報負荷も増える。しかし、同じ情報量であっても、情報負荷が高い場合も、低い場合もある。 …(中略)… 情報負荷は、情報の「量」と情報の「質(内容)」の両者の程度によって異なってくる(p.110)
同じ情報量、同じ情報の質(内容)であっても、個人にとっては異なった情報負荷をもたらし得る …(中略)… 一般的には、個人の情報処理能力が高ければ高いほど、処理できる情報量と情報の質(内容)は多く、高くなる(p.111)

そして小川(2003)は、情報負荷の増減はシンプル化(処理しなければならない情報量と質の限定)と複雑化(処理しなければならない情報量と室の豊富化)により行われるとし、それを容易に求め得る状況を作り出すものとして「遊び」を再解釈した。また小川(2003)は、遊びにおける「結果のフィードバック」も重要視しており、直接的・即時的に、他の行動結果が混じりあわない純粋な形で戻ってくる点が、遊びを面白くしていると述べている。

以上、遊びを情報負荷の観点から再解釈し、遊びを選択することについて検討した。次節では、これまでの考察をもとに「インタラクティブ」と「遊び」の理論を統合する。

 

「遊び」の時間-空間論

まず、カイヨワの「遊び」の分類と、石幡(2012)の「game」と「play」の関係を検討する。カイヨワの4区分(①アゴン②アレア③ミミクリ④イリンクス)は、ヒトの本能に根ざしているので、行為すなわち「play」と対応する。一方、衝動と理性を両極にとる軸(パイディア/ルドゥス)は、規則の”厚み”ないし"広さ"であるから、抽象空間すなわち「game」に対応する。これは上手くいく。

次に、小川(2003)の情報負荷理論と、同じく石幡(2012)の「game」と「play」の関係を検討する。小川(2003)のモデルは、プレイヤーの情報処理能力を所与とし、遊びの”選択”により最適な情報負荷を達成するものである。すなわち「game」と「play」は一体であり、プレイヤーの特性と選択する「game」の関数として、情報負荷が定められている。

これは良くない。なぜなら、小川(2003)の情報負荷理論は方向性と結果についてのモデルであり、最適覚醒に至るプロセスについては言及されていないからだ。「play」は「play ⊂ active(物理配置が変化している状態)」*1であることから、明らかに時間軸を前提としている。したがって、同理論に「play」を組み込むには、その前段階として情報負荷と時間の関係を整理する必要がある。

刺激がゼロの状態と過度な刺激の中間に、適度な刺激状態があるという前提より、ある瞬間(以下、平面と呼称する)における最適情報負荷は一意に定まる。しかし、これらの平面を時間軸上に見ていくと、平面ごとに最適情報負荷は異なるはずである。なぜなら、個人の異時点における情報処理能力は、秒単位でさえ一定ではないからだ。また、平面間の差分としての刺激や、逆に同一の最適覚醒状態が続くという意味での”刺激ゼロ”が考えうる。すなわち、ある時間尺での最適情報負荷の遷移(楽しさの最大化問題)は、必ずしも平面的な最適情報負荷の積み重ねとイコールではないということだ。最適情報負荷を達成する「play」は、平面的な最適化問題であると同時に、現在の情報負荷からの脱却も志向する。

以上を踏まえて、小川(2003)のモデルを再構築する。小川(2003)は情報処理能力を「遊び」に依らず一定としていたが、ぼくのモデルでは「その遊びにおいて、とりうる行為のなかで、ベターなものを選ぶ能力」と定義する。関数的に説明すれば、第一に小川(2003)の情報処理能力と時間の関数として基礎情報処理関数(とりうる行為のなかで、ベターなものを選ぶ能力)を規定し、そこに「遊び」ごとに異なる特定情報処理関数を噛ませ、言わば合成関数として情報処理能力を定義するということだ。

これにより、石幡(2012)の「game」と「play」の構造を介して、カイヨワの「遊び」の分類と、小川(2003)の情報負荷理論が統合できる。百聞は一見にしかずということで、まずは下図を見ていただきたい。

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ここで注意点が四つある。①矢印の動きを志向する「play」が区分に用いられてきたのであり、ある区分の「遊び」が矢印の動きを志向するのではない。②縦の矢印は「特定情報処理能力」の変化、横の矢印は「処理する情報負荷量」の変化であり、その意味するところは異なる。③必ずしも全ての「play」が平面的な最適情報負荷を志向するわけではないが、まずは平面で説明するため平面最適の図とした。④図には四つの「play」が描かれているが、それらの相対的な位置には意味はなく、意味をもつのは「最適な情報負荷の45度線に対する人間の初期位置」と「矢印の方向性」と「人間の限界範囲」だけである。

さて、この「遊び」の平面を、時間軸で並べたときに生じる関係が「インタラクティブ」である。以下、時間軸を用いて「インタラクティブ」と「遊び」を統合していく。

精神×記号インタラクティブは、予測と解釈のインタラクティブである。精神-記号インタラクティブに時間という軸を与えると、そこにはフィードバック・ループ、すなわち「学習」が生まれる。そしてトライ&エラーを繰り返すなかで、精神-記号インタラクティブは、物理-記号インタラクティブへと漸近していく。

最適な情報負荷とは、要するにフィードバックに適度な分散が保たれている状態である。したがって、特定情報処理関数を向上させることで最適な情報負荷へと至るプロセスは、精神-記号インタラクティブが「学習」により物理-記号インタラクティブに漸近するプロセスと同じである。そして、これをアゴン(競争)の「play」と呼ぶのだ。

アレア(偶然)は、処理困難な物理-記号インタラクティブ(その残渣を「運」と呼ぶ)を切り出し、それをごく単純な抽象空間で捉えることで最適情報負荷を達成する。図で読み替えると、縦矢印(特定情報処理能力の変化)はなく、横矢印(処理する情報負荷量の変化)のみで最適情報負荷を達成するのが、アレアの「play」である。結果の不確かさによる空間的な”刺激”が大きいことも特徴である。

ミミクリ(模擬)は、切り出された物理-記号インタラクティブに対して、情報処理能力が勝る場合に生じる「play」である。脱我でありつつ自我はあるという「play」であり、プレイヤーの情報処理能力が下回ることはありえない。もしそのバランスが崩れてしまえば、急速に我に引き戻されるか、あるいは完全な脱我となり、どちらにせよ「遊び」は崩壊するからだ。ゆえに常に初期位置は「最適な情報負荷の45度線」の上方であり、縦矢印(特定情報処理能力の変化)と横矢印(処理する情報負荷量の変化)を組み合わせて「最適情報負荷」を達成する。前者は「演技」が現実の小空間であること、後者は「演技」においては自己以外の情報を必要とすること、などを考えればわかりやすい。

イリンクス(眩暈)は、処理困難な物理-記号インタラクティブが突然発生することに特徴がある。ゆえに、その楽しさの大部分は平面間の差分の刺激として発生するのであり、平面で考察できることは僅かである。

以上の内容を、図示してみた。時間は「active」の積み重ねで進むのであり、両者は意味的に等価である。もちろん「play」も例外ではない。現在のぼくたち自身の情報処理能力を元にして、未来における最適な情報負荷を志向する行為こそ、これまで検討してきた「play」である。それがピタリとはまると楽しい。これが最適情報負荷の理論である。

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だが、違和感がないだろうか。情報負荷と予測は現在の話であり、それがピタリと嵌まるのは将来の話だ。ひとたび行為を実行すれば抽象空間が物理空間に転換するが、行為の先にある物理空間は抽象空間である。規則(game)は物理空間と抽象空間をつないでおり、物理空間と抽象空間は混じり合うことはないが、それは平面における法則にすぎない。あらゆる将来は物理空間には存在せず、常に抽象空間として漂っており、行為が実行されることで物理空間となる。そして、ここが重要なポイントだが、楽しいと感じるのは「将来の現在」である。

では視点を変えて「将来の現在」という物理空間だけを見つめてみよう。そこにあるのは「行為の結果」と「楽しいという気持ち」の二つだけだ。想起する「予測」や「情報負荷」は過去という抽象空間にある。そして抽象空間は、未来がそうであったように、規則に応じて無数に存在しうる。

この視点こそが、最後のピースである。それは平面的な最適情報負荷理論の限界、すなわちプレイヤーの情報処理能力により最適な情報負荷が決まるという静的関係に穴を穿ち、これまでの理論を時間のダイナミズムと調和させる。

一言でいえば、ぼくたちは不確実性と遊びたいのだ。理由は実にシンプルで、ぼくたちは第一に不確実性を制御したく、第二にそれが不可能であることが身にしみており、第三にそれでも全能感を味わいたいのである。最適情報負荷の理論は「行為の結果」と「楽しいという気持ち」に対する正しい後づけである。神のみぞ知る確率を引き当てたという「結果」と、それが楽しいという「気持ち」は、必然的にプレイヤーの情報処理能力を人間を超えた高さに位置付ける。このアレア(運)における擬似的な成長は、アゴン(競争)と同じ方向性をもつ。

生きることは物理空間を求め、その軛から逃れられないからこそ、ぼくたちは抽象空間と「play」するのだ。その「game」のための規則は、振る舞いを規定するのではなく、むしろフィードバックを限定することに意味がある。物理空間に対する無能感とは、予測不可能性というより、フィードバックの峻別が不可能なことに起因するからだ。誰も物理世界すべてのフィードバックに対し、主体的にインタラクティブを感じることはできない。だからこそ、ぼくたちは「play」で物理空間を切り出し、抽象空間を「play」する。

さて、そうした観点から、パイディア/ルドゥス軸を再考してみよう。パイディア/ルドゥス軸は、規則の”厚み”ないし"広さ"である。ルドゥスに寄ることは、抽象空間の情報密度を上げ、フィードバックを明確にし、より「予測」や「情報負荷」に説得力を与える。他方でパイディアは、その自由度でもって不確実性を拡大し、再び「play」を広大な抽象空間へと解き放つ。どちらもフィードバックを明確化する(物理空間から切り出す)という観点は同じだが、ルドゥスに寄れば寄るほど、特定の抽象空間への理解と帰依が求められる。

そして、そんな絶えず変化する抽象空間をラフに統合し、潤滑油のような働きをするのが、精神×意味インタラクティブである。精神×意味インタラクティブは、無常に結果を突きつける記号インタラクティブに対する、一種の緩衝材である。記号インタラクティブは常に精神が物理と比較されるが、意味インタラクティブは果て無く自由である。究極的には(物理法則には)物理×意味インタラクティブは存在せず、仮に物理×意味インタラクティブがあったとしても、その成否を問うことは極めて困難である。また物理×意味インタラクティブがある場合には、特殊情報処理関数を向上させる効果すらある。システム主体が埋め込んだ意味が分かれば、それに紐づく物理×記号インタラクティブの理解も容易となる。たとえば、将棋で最弱の駒が「歩兵」と名付けられていることは、物理×記号インタラクティブの観点からは解釈しえない。

精神×意味インタラクティブは、絶対に確定しえないという、フィードバックの曖昧さを孕んでいる。そして、それを以って精神×記号インタラクティブの理解を助け、あるいはズレを誤魔化し、さもフィードバックが正しい範囲にあるように錯覚させ、ぼくたちを特定の「game」のなかで「play」させ続ける。だからこそ、記号インタラクティブに熟達すれば、曖昧さを孕む意味インタラクティブは消失してしまうのだろう。

以上が「インタラクティブ」と「遊び」の統合理論である。これをビデオゲームに適用すると、遥か上方に消えたタイトル「すべてのビデオゲームRPG(Role-Playing Game)である」が導かれる。

 

すべてのビデオゲームRPG(Role-Playing Game)である

RPGはミミクリ(模擬)なのか、アゴン(競争)なのか。その答えは"両方"である。

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RPGは基本的にミミクリ方向の「play」である。Role-Playingなのだから当然だろう。しかし、誰もが一度は、明確にアゴン方向に切り替わる瞬間を味わったことがあるだろう。例えばそれは、連戦連敗のボスと戦うとき、演出をスタートボタンでスキップするとき、ダメージ計算および予測を紙にメモしているとき、などなど。そのときのフィードバック制御の難しさは、最適な情報負荷を優に超えている。だが必ずいつかミミクリに戻る。RPGは少し余裕がでればミミクリ方向、少し危なくなればアゴン方向という釣り合いのなかで、物語が進行していくのだ。

この物語という概念は面白い。映画においては、物理×記号インタラクティブはゼロであることを以て、頻繁にイリンクス(眩暈)方向の「play」が発生する。それと同じように、RPGにおける「play」でもイリンクスを志向できるかもしれない。いわゆる「面白いのは知っているがプレイしたことはない」という状態は、イリンクス方向が足りないのかもしれない。また、どう考えても勝てないボスに挑み続けるとき、アゴンとしては当に終わるはずの「遊び」が、アレア(偶然)方向にも行きつ戻りつ、終わることなく続いている。

それこそが、先に述べた精神×意味インタラクティブの働きなのだ。HPゲージが尽きたボスが倒れないとき、そこに「game」を維持できるのは、精神×意味インタラクティブがあるからだ。王を取りながら終わらない将棋など、遊べやしないはずなのだから。

さらに面白いのは、精神×意味インタラクティブは、パッケージとしてのビデオゲームに閉じないことだ。どんなに面白くないと思いつつも、シリーズ順にプレイするという「game」ゆえに駄作をプレイすることもあるだろう。その意味で、すべてのビデオゲームは、ゲームを「play」するというroleを「play」しているのだ。味付けが上手いのがソーシャルゲームなのだろう。どんなに面白いビデオゲームでも、物理インタラクティブが無ければはじまらないのだから。

規則は行為ではなくフィードバックを切り出すことに意味がある。ビデオゲームはフィードバックの明確性が極めて高く、それゆえ精神×記号インタラクティブが鋭利になりすぎ、ビデオゲームという「game」を保つための精神×意味インタラクティブが目立つのかもしれない。それこそが、いわゆるゲームのインタラクティブ性と言われるものの正体なのだろうか。

 

参考文献

*1:動詞と形容詞を集合で表す気持ち悪さは気合で乗り越えよう。