Space Run A-Weblog

生き続けたら 君は哀戦士

すべてのビデオゲームはRPG(Role-Playing Game)である

ビデオゲームについて語ることは、雲を掴むことに似ている。ぼくは雲を見ることができるし、どんなものか説明できるし、思いを馳せることもできる。だけど、手ざわりを感じるために掴もうとすれば、雲は立ちどころに霧散してしまう。

同じように、ビデオゲームについて語る言葉や概念はよく分かる。キャラクターとアバターインタラクティブ、受動と能動、学習と快感、システムとナラティブ、などなど。しかし、じゃあビデオゲームとは何なのかと考えてみると、どうにも収まりが悪く気持ち悪い。同じことを異なる言葉で説明しているようでいて、いざ正面から向き合えばうまく接合できず、なんだか掴みどころがない。

そこで今回は、ビデオゲームに纏わる諸概念を丁寧に解きほぐし、一つの理論体系に統合することを試みた。ただ、タイトルとして「すべてのビデオゲームRPGである」とブチ上げてはいるものの、その結論自体に大した意味はない。本エントリが目指すのは、ビデオゲームに関する論考について「それって○○だよね」と言うときに、抜け落ちてしまうものや不純に混ざってしまうものを、可能な限り正しく取り扱うことのできるフレームワークを炙り出すことだ。

ただし、ぼくはゲームクリエイターではないし、ゲームに携わる仕事もしていないし、なんなら年間でも数本程度しかプレイしない駄ゲーマーだ。だから、実態と著しく異なる記述があるかもしれないが、そこは寛大な心でご指導いただければ幸いである。

 

インタラクティブ」を問い直す

ビデオゲームに纏わる諸概念のうち「インタラクティブ」ほど厄介なものはない。確かにビデオゲームは様々なインタラクティブで満ちている。例えば、右ボタンを押せばマリオが右に進むのもインタラクティブだし、選択肢に応じてストーリーが変化することもインタラクティブだ。しかし、そもそもインタラクティブとは何なのだろうか。インタラクティブという抽象概念は、わかりやすいが明確ではなく、例示は簡単だが網羅的ではない。

インタラクティブの語源はinter-activeであり、接頭辞interは「関係」であるから、インタラクティブとは二つのactiveを前提とする何かである。では、activeという形容詞は何かと考えると、それは「物理配置が変化している状態」だと解釈できるだろう。例えばヒトが歩くとき、足や身体の物理配置は常に変化し続けている。これを外形的に捉えれば、足や身体がactiveであると言える*1

ゆえにインタラクティブとは「物理配置が変化している状態Bが、物理配置が変化している状態Aに影響されている状態」と定義できる。なお、シンプルに「Bの変化がAの変化に影響を受けること」と書いていないのは、それらしく哲学ぶりたいからではなくて、変化の主体から離れて関係性を眺めるためだ。物理配置が変化している状態とは、あくまで現象の外形であり、変化をもたらす要因(能動的か否か、他の物理的要素、など)とは独立に記述されることに注意してほしい。

…なにを小難しくと思われるかもしれないが、先述のとおり本エントリの目標は「それって○○だよね」を問い直すことにある。だから「物理配置が変化している状態Bが、物理配置が変化している状態Aに影響されている状態」を、具体に引き寄せて一意に固着させるのではなく、ぜひ様々な観点から眺めていただきたい。

なにが見えただろうか。ぼくには「精神と物理」と「記号と意味」の二つの軸がみえた。

それぞれ一言で説明すると、精神インタラクティブは予測と解釈のインタラクティブ、物理インタラクティブはシステムに規定されたインタラクティブ、記号インタラクティブはコンテキストのないインタラクティブ、意味インタラクティブはコンテキストのあるインタラクティブだ。なお「精神と物理」と「記号と意味」は別の軸なので、このインタラクティブの分類は掛け算である(例えば、精神-意味インタラクティブなど)。

さて、どうだろうか。分からないようで分かり、分かるようで分からなく、非常にモヤモヤしているのではないだろうか。

ではここで、あえて具体例として、ヒーローショーの応援を考えてみよう。ショーの終盤、子供たちが「がーんばれー!!」と声援を送ることで、力を得たヒーローは必殺技を繰り出し怪人を灰燼に帰す。この一連の流れには様々なactiveがあり、どこまでも細かく見ることはできるが、一例として「応援する」と「必殺技を出す」というactiveを抜き出してみよう。

記号 意味
精神 応援すると、ヒーローは必殺技を撃つ 応援によりパワーを送ると、それを受け取ったヒーローが必殺技を撃つ
物理 応援パートの次に、必殺技パート 応援により励まされ、ヒーローは最後の力で必殺技を撃つ

まず「精神と物理」だけを考えてみる。例えば、このヒーローショーのワンシーンが映画であればどうだろうか。無垢な少年には申し訳ないが「応援する」と「必殺技を出す」の間には、いかなる物理インタラクティブも存在しない。映画は観客の「応援する」に関わらず進行し、シーンの時間がくれば「必殺技を出す」からだ。しかし精神インタラクティブは存在しうる。なぜなら、たまたま「応援する」と「必殺技を出す」が連続すれば、そこに少年はインタラクティブを見い出しうるからだ。

これは逆に、たとえ「応援する」と「必殺技を出す」というactiveは同じでも、精神インタラクティブは無数に存在しうることを示唆している*2。すなわち、精神インタラクティブは主体に結びつくのであり、物理インタラクティブはシステムに結びつくのだ。

その視点に立脚すると、インタラクティブの四パターンがスッキリと理解できる。まず、ある主体がインタラクティブを予測するとき、そこに何らかの意味解釈があれば精神-意味インタラクティブとなり、全く無ければ精神-記号インタラクティブとなる。例としては不適切だが、宗教観に根ざした天動説が精神-意味インタラクティブ、無垢に夜空を見上げたときの天動説が精神-記号インタラクティブに近い。

また、システムに規定されたインタラクティブは、まさしく物理-記号インタラクティブであるが、そのシステムを規定した主体の世界観が反映されている場合、一部ないし全部が物理-意味インタラクティブとなる。例えば、物理法則に物理-意味インタラクティブは存在しないが*3ビデオゲーム内での物理法則には物理-意味インタラクティブが存在する。なぜなら、後者にはシステムを規定した主体が存在するからだ。

以上が「精神と物理」と「記号と意味」の二つの軸の説明である。どうだろうか。ある程度はモヤが晴れたが、新たなモヤが生まれてきたのではないだろうか。

では、そのモヤを解消する補助線として「時間」という軸を追加し、二軸平面を三軸空間に拡張してみよう。それにより、これら四パターンの関係性を考えることができるのだ。

そもそも、インタラクティブという概念は時間の存在を前提としている。まずもって「物理配置が変化している状態」が時間により切り出される概念であるし、影響という概念の背景にある順序もまた時間軸を必要とする。だが、ここで考えたいのは、それを高次に包摂する四パターンの関係性である。

まず、精神-記号インタラクティブから考えてみよう。ここでのポイントは、時間なき予測は存在しないことだ。すなわち、精神-記号インタラクティブに時間という軸を与えると、そこにはフィードバック・ループ、すなわち「学習」が生まれる。そしてトライ&エラーを繰り返すなかで、精神-記号インタラクティブは、物理-記号インタラクティブへと漸近していく。もちろん紆余曲折はあるだろうが、いずれ無垢な少年は映画に応援することの無意味さに辿り着くのだ。

他方で、意味インタラクティブは非常にわかりにくい。というか、これまでの議論から導き出せることは皆無であり、必然的に新たな視点が必要となる。次節ではそのヒントを探る。

 

「遊び」の理論

突然だが、そもそも何故ビデオゲームは楽しいのだろうか。これまで考えてきた「インタラクティブ」は、あくまで行為を所与とした話であり、何故プレイヤーがそれを行うのか(楽しいと思うのか)については一切言及していない。そこで本節では、ロジェ・カイヨワの論説を元に「遊び」という行為を解きほぐしてみることにする。

まず、カイヨワの「遊び」の定義を見てみよう。カイヨワ(1990)では、①自由な活動、②隔離された活動、③未確定な活動、④非生産的活動、⑤規則のある活動、⑥虚構の活動、の六つを満たす活動が「遊び」であると定義されている。こうして六つ並べて書くと一つのイメージに収斂させにくいが、実のところカイヨワは行為の外形により「遊び」を定義しているのであり、行為それ自体ではなく空間に目をむけるとわかりやすい。ただし、それは物理的な外形(前節でいうactive)ではなく、抽象的な空間で捉えたときの外形である。

すべて遊びは規則の体系である。規則は、何が遊びであり何が遊びでないか、すなわち、許されるものと禁じられるものとを決定する。この取りきめは恣意的であり、同時に強制的であり、決定的である。それは、いかなる口実があろうと破られてはならない。もし破られるなら、遊びは即座に終わり、違犯という事実そのものによって破壊されてしまうのだ。なぜなら、遊ぼうという欲望、つまり遊びの規則を守ろうという意思によってだけ、規則は維持されているからである。(p.17)

抽象空間とは、よくよく考えると実に奇妙な概念だ。まず第一に、そんなものは実在しない。ある行為を抽象空間のなかで捉えることはできるが、ぼくたちは抽象空間のなかで行為を行うわけではない。あらゆる行為は物理空間に紐付いており、それは思考や感情すらも例外ではない。だが第二に、抽象空間はぼくたちの行為の意思決定に影響を与える。それこそが規則と呼ばれるものであるが、しかし規則=抽象空間と書くと、理屈がナナメにジャンプしたような気持ち悪さがある。では、規則と抽象空間はどのような関係にあるのだろうか。

ぼくは規則を「物理空間と抽象空間をつなぐ関数」だと考える。二つの空間は互いに混じり合うことなく存在しているが、いわば空間の外壁が相互に”へばりつく”ような形で隣接している。物理空間から捉えた抽象空間は歪んでいるが、同時に抽象空間から捉えると物理空間の方が歪んでいる、という相対性に立脚するとわかりやすいだろう。この空間のへばりつき方こそが規則であり、規則を通してのみ二つの空間は互いに影響しあう。なお、物理空間は一つだが、抽象空間は規則の数だけ存在しており、規則と規則は必ずしも排他的ではないことに注意してほしい。

ここで二つの空間の変化を"active"であると捉えれば、インタラクティブとの理論接合が見えてくる。だが抽象空間を「物理配置」と見なすのでは、物理空間と抽象空間を分けて規則を定義した意味がない。この繋げそうで繋げないモヤモヤは後で考えることにして、とりあえず「遊び」の理論の話に戻ろう。

カイヨワは「遊び」を外形的に定義するだけではなく、本能の充足形態に基づく区分と、衝動と理性を両極にとる軸を用いて、具体的な遊びの中身の分類も行っている。本能の充足形態に基づく区分とは、①アゴン(競争)*4、②アレア(偶然)*5、③ミミクリ(模擬)*6、④イリンクス(眩暈)*7の四つであり、それぞれ例えば、①スポーツ、②ギャンブル、③ごっこ遊び、④ジェットコースター、などが分類される。また、遊びのもつ衝動と理性のバランスを元に、片方の極をパイディア(遊戯)*8、もう片方をルドゥス(闘技)*9としており、例えばアゴンの遊びであれば、取っ組み合いはパイディア側、スポーツはルドゥス側に分類される。

いきなり四区分×二次元で混乱するかもしれないが、ここで重要なのは、カイヨワの区分が本能の充足形態に基づくことである。言うまでもなく、本能は物理空間に根ざしており、行為もまた物理空間に根ざしている。すなわち、そうした本能に根ざした行為を、ある特定の抽象空間で捉えうる場合に、それは「遊び」と呼ばれるのであり、カイヨワの四区分は言わば抽象空間の”色”である。また、それらの原始的な発露が極めてパイディア(遊戯)寄りであることを考えると、本能の発露がルドゥスに寄ることは、物理空間と抽象空間をつなぐ規則の”厚み”ないし"広さ"が増すことであると解釈できる。

では、規則(=遊びを規定するもの)が拡大すると、その「遊び」には何が起こるのだろうか。こうした「遊び」における規則と行為の関係性については、石幡(2012)の「game」と「play」の概念的区別がわかりやすい。

「遊ぶ(play)」という行為を、「遊び(game)」とは区別すべきだと考えている。「遊び」とは、けん玉、しりとり、ままごと、工作などのように、その様々なやり方を抽象して、共通の構造のみを表した概念である。対して、「遊ぶ」ことは、その「遊び」にどう関わるかという「遊び」の構造の「使用法」を意味する(※1)。あるいは、このようにも言えるだろう。「遊ぶ」という行為は、「遊び」のヴァリエーションを作り、その構造に「ずれ」を持ち込むことである(※2)、と。

※1 アンリオは、「遊びは何よりもまず、遊び手とその遊びとのあいだに存在する遊びによって存在する」と述べている。筆者の考える「遊び(game)」とはアンリオの「その遊び」であり、「遊ぶ(play)」とは「あいだに存在する遊び」である。参考:ジャック・アンリオ. 『遊び―遊ぶ主体の現象学へ』 (白水社. 2000.)
※2 したがって、言葉で記述しようとすることは、微細なヴァリエーションを含む行為を、ひとつの単語に回収することであるから、本質的には、遊ぶ(play)の遊び(game)化を免れない。

また、石橋(2012)の依拠しているジャック・アンリオの「遊び」概念については、加用(2013)の批評が重要な視座を与える。以下、少し長いが引用する。

一読して分かるようにこの定義では遊び規定が2面的になっている。全体としての行為あるいは活動を指しているのか、それとも「あいだに存在する」とされる遊び部分を指しているのか、規定的に2面的なのである。遊びはある種の活動を刺すのだろうか、それとも活動内に含まれる特殊な要素そのものを指すのだろうか?…(中略)…。テニスコートでプレイにふけっている人たちの活動全体が遊びなのか、最中に垣間見せる真剣な集中的態度や、あるいはときおり飛び交う笑いや冗談のやりとり、そしてお互いの失敗への笑い合いなどの個々の態度的要素を遊びと呼ぶべきなのか?(pp.68-69)
間に在るとされる「遊び」とはいかなるものか? …(中略)…。第一は遊び手と対象の間の距離の問題であり、第二はアンリオ自身の用語ではないが両極性の問題である。…(中略)…。たとえば「模倣」では、模倣の遊びのようなものがあったとしても、それが完全なコピーになっていたらもはやそれは遊びではない。対象そのものとなってしまう。…(中略)…。まったく模倣になり得ていない極と完全なコピーである極、遊びはこの両極の間に成立するのであって、完全なコピーにはならないようにしているのが主体と対象の間に成立する距離なのだ。これがアンリオの遊び= 距離論である。(p.80)
「距離の設定」、こなれた日本語に言い換えるなら<ゆとり>という言葉に該当するであろうが、これが遊びを遊びたらしめるものであるというのがアンリオの基本主張であり、おそらく多くの論者にも支持される論点であろう。しかし第二に、これを両極性の基準に当てはめて、両極の中間に位置づくのが遊びであるとしてみると、相当するのは一方の極端から離れること(たとえば真に迫ったりしないこと)のみであり、他方の真に迫る模倣、真に迫る同一化、偶然性やめまいへの憑依に近づく(一致ではない)こととを保証するものではない。ゆとりはあくまでゆとりであって熱中や夢中とは別物である。アンリオの示唆から学んでそれをこなれた日本語に言い換えるなら、それはいわゆる<のり>という概念に相当するものになるだろう。結論としてアンリオが引き出した要素としての遊びは〈ゆとり一のり複合体〉とでも名付けうるようなものなのである。(p.81)

従来の「遊び」の論説に対し石橋(2012)は、「game」は「play」の形式を一定範囲で制約するが、反面で「play」は「game」にズレを生じさせると主張した。また加用(2013)の解釈は、石橋(2012)の言う「play」そのものに、本能の両極に対する自由度が内在している、と読み替えることができる。

だが先に述べたように、ある本能に根ざした行為を特定の抽象空間で捉えうる場合に、それは「遊び」と呼ばれるのであり、この見方に立脚すれば、活動論か要素論かは空間の範囲の問題にすぎない。なぜなら、ある「game」における行為が「play」である以上、行為を起点に考えれば一つの行為に対して複数の「play」が存在しえるのであり、活動-要素論は複数の「game」の包含関係の表現にすぎないからだ。

さらに思考を拡張すると、一つの行為を捉えうる、無数の抽象空間と相対すことになる。ある「play」はどこまでも細かな「game」に分割可能であり、また、果てなく大きな「game」に拡張可能でもある。それだけでなく、行為そのものは「game」ではない抽象空間でも捉えうる。こうした多元的な世界のなかで、ぼくたちは何に立脚すればよいのだろうか。

ここまでの考察で、ビデオゲームを特徴づけるインタラクティブとは何であるか、ビデオゲームを遊ぶという行為は何であるか、その二つを可能な限り一般化して検討してきた。その結果、一方では時間と意味インタラクティブの解釈で行き詰まり、他方では「遊び」の多元世界に溺れてしまった。この二つが混じり合うことで相互の問題が解決すればドラマチックだが、現実はそんなに甘くはない。

そこで次節では、さらに新たな視点を得るため、行為の有限性に着目する。言い換えるなら、ぼくたちは何故「遊び」を選択するのか、ひいては最適な「遊び」とは何かを探ることにする。そろそろ疲れてきたかもしれないが、もう少しで結論なので頑張ってお付き合いいただきたい。

 

「遊び」と情報

小川(2003)では、ホイジンガやカイヨワの遊びの研究を参考にしつつ、エリスの最適覚醒の理論およびチクセントミハイのフロー理論を元に、遊びの「面白さ」と個人に荷される情報負荷の関係を考察している。本節では、この論文を以降の議論のたたき台として紹介する。

エリスの最適覚醒の理論とは、一言でいえば、ほどよい刺激は楽しいという理論だ。

エリスは、まず遊びの動因として、最適覚醒の概念を提案している。…(中略)…。生活体は、行動が成立する活動レベルに応じて、かろうじて覚醒している状態から極度の興奮までさまざまな段階がある、そして、このそれぞれの段階を覚醒水準(arousal level)と呼ぶ。この覚醒水準に関して、個人は個人にとって居心地の良い、収まりの良い覚醒水準をもっており、この居心地の良い覚醒水準を最適覚醒水準と呼ぶのである。/このことを前提として、エリスは、この最適な覚醒水準をもたらしうる、もたらしそうな刺激は、個人にとって「面白さ」を感じることができる、というのである。(p.103)
低過ぎるでもなく高過ぎるでもなく、適度な刺激状態を求めて、有機体は退屈を避けたり不愉快な過剰刺激を避けたりするといった行動をとる。…(中略)…。緊張の緩みを覚醒水準以下と解釈し、緊張の獲得を最適な覚醒水準の追求とみるならば、ホイジンガも、同じ意味のことを違った言葉で表現しているだけである。(p.104)

次にチクセントミハイのフロー理論を概観する。

(フローとは)ある物事に集中しているときに、楽しさゆえにそれに完全にとらわれ、他のものごと、雑事、雑音、時間の経過をも忘れさせるほどの状態を言う。そしてそれゆえに、フローは、あるものごとに没入するという経験を通じて、私たちの生活に「意味づけ」と「楽しさ」を与えるのである、とチクセントミハイは言うのである。…(中略)…。チクセントミハイは、小さいフロー(micro flow)として、テレビを見る、腕の筋肉をストレッチする、コーヒーを飲みながら歓談する等々の、日常的な簡単な没入経験も例示している。(p.106-107, 丸括弧内筆者) 現在の意図と葛藤し合う情報、または意図の遂行から我々をそらしてしまう情報により、意識が混乱させられている状態、意識を集中できない状態を心理的エントロピー心理的に無秩序の状態)にあるという。そして、この反対の極の状態にあるとき、最適経験(フロー体験)と呼ばれる状態であると、チクセントミハイは言う。(p.107)
チクセントミハイは、フロー活動とは行為者の技能に関して最適の挑戦を用意している活動のときに生じるという。…(中略)…。行為への機会が自分の能力よりも大きければ、結果として生ずる緊張は、不安として経験される。挑戦にたいする能力の比率がより高く、しかし依然として挑戦が彼の技能よりも大きいならば、その経験は心配である。フローの状態は、行為への機会が行為者の技能とつりあっているときに感じられる、したがって、その経験は自己目的的である。技能が、それを用いる機会よりも大きいときには退屈状態が生ずる。技能の挑戦にたいする比率が大きすぎると、退屈は次第に不安へと移行する。(p.107)

以上を踏まえ、まず小川(2003)は、楽しさの源泉に関するエリスの理論(適度の情報負荷がもたらす最適覚醒)と、チクセントミハイの理論(最適な挑戦の機会がもたらすフロー状態)の接合を試みた。

チクセントミハイは、フロー活動は刺激の領域を限定することによって、人々の行為を一点に集中させると言っている。このことは、個人の処理しなければならない刺激情報を限定すること、目下の行為において必要のない刺激情報を個人の情報処理範囲から排除することを意味している。…(中略)…。一般論的には、短期的なスパンにおいては、個人が処理しなければならない情報を減らすことにより、個人にとっての情報負荷が適度になり、その結果、それが個人にとっての最適な挑戦の機会をもたらすと考えることができる。…(中略)…。それは、まさにエリスの言う最適覚醒水準の追求と同じ手続きということになる。したがって、最適覚醒水準の追求もフローの追求も、情報負荷の増減によってなされることがわかる。(pp.108-109)

次に小川(2003)は、情報負荷の概念を用いて両者の理論を再整理した。

f:id:inmecha:20171224235629p:plain
本論では、情報という語は、心理学用語である刺激と同義であるとみなす。そこにおいて、個人が処理しなければならない、あるいは処理しようと思っている情報によってもたらせられる精神的、身体的負担を情報負荷とみなす。…(中略)…。「面白さ」の程度は情報負荷の程度に依存している、そして「面白さ」の程度が最も高い可能性があるのは、 情報負荷の程度が個人にとって中程度と思われる適度の場合である。…(中略)…。最適な情報負荷は、イコール面白さ、楽しさ、快感である。そして、この面白さ、 楽しさ、快感をもたらす最適な情報負荷は、いかにうまく遊びの状況・条件設定を作るかに依存して達成される。(pp.109-112)

なお、小川(2003)のいう情報負荷とは、情報量と情報の質の関数である。

f:id:inmecha:20171224204905p:plain
情報量とは、いわゆる最小単位ビットで表される量である。…(中略)…。単純に言えば、情報量が増えれば、個人にとっての情報負荷も増える。しかし、同じ情報量であっても、情報負荷が高い場合も、低い場合もある。…(中略)…。情報負荷は、情報の「量」と情報の「質(内容)」の両者の程度によって異なってくる(p.110)
同じ情報量、同じ情報の質(内容)であっても、個人にとっては異なった情報負荷をもたらし得る…(中略)…。一般的には、個人の情報処理能力が高ければ高いほど、処理できる情報量と情報の質(内容)は多く、高くなる(p.111)

以上の議論を元に、小川(2003)は、シンプル化(処理しなければならない情報量と質の限定)と複雑化(処理しなければならない情報量と室の豊富化)により、個人は最適情報負荷を求めるのだと主張する。

ホイジンガとカイヨワの遊びの定義も、「面白さ、楽しさ、快感」に結びつく最適な情報負荷という視点から解釈できる。それは、情報負荷を減じたり、増やしたり、そして「面白さ」の種類の選択をすることによって、いかにうまく「面白さ」を獲得できるかの工夫と言える。…(中略)…。最適情報負荷は、情報のシンプル化と情報の複雑化の相反する2つの方法によって達成される。この最適情報負荷は、遊びにおいて、より容易に求められ得る状況が作り出される。(p.114)
最適情報負荷と同時に、遊びが面白いと思えるもうひとつの重要な理由が、この結果のフィードバックである。/遊びにおいては、結果のフィードバックが、直接に、あまり時間をおかず即時的に、他の行動結果が混じりあわない純粋な形で戻ってくる。このことは、先に述べたホイジンガ、あるいはカイヨワの遊びの定義における2つの特徴から派生する。②の隔離された活動と⑤の規則のある活動である。(p.115)

以上が小川(2003)の抜粋・要約である。さすがに引用しすぎた気もするが、これで材料は全て揃った。いよいよ次節にて、これまでの議論と理論の統合を試みる。

 

「遊び」の時間-空間論

まず、カイヨワの「遊び」の分類と、石幡(2012)の「game」と「play」の関係を検討しよう。カイヨワの四区分(アゴン、アレア、ミミクリ、イリンクス)はヒトの本能に根ざしており、行為すなわち「play」に紐づけて考えるべきであろう。他方で、衝動と理性を両極にとる軸(パイディア-ルドゥス)は、規則の”厚み”ないし"広さ"であるから、抽象空間すなわち「game」のパラメーターだ。そうした「game」と「play」の構造に立脚すると、小川(2003)の情報負荷理論により、カイヨワの「遊び」の分類を幾何学的に解釈することが可能となる。

小川(2003)のモデルは、プレイヤーの情報処理能力を所与とし、遊びの”選択”により最適な情報負荷を達成するものである。すなわち「game」と「play」が一体となっており、プレイヤーの特性と選択する「game」の関数として情報負荷が定められている。そこで、ここに「play」の楔を打ち込み、三要素で情報負荷を考えてみよう。

小川(2003)の情報負荷理論は、方向性と結果についてのモデルであり、最適覚醒に至るプロセスについては言及されていない。他方で「play」は「play ⊂ active」*10であることから、明らかに時間軸を前提としている。したがって、モデルに「play」を組み込むには、その前段階として情報負荷と時間の関係を整理する必要がある。

刺激がゼロの状態と、過度な刺激の中間に、適度な刺激状態があるという前提に疑う余地はないだろう。それを頼りに考えれば、ある瞬間(以下、平面と呼称する)における最適情報負荷は一意に定まりそうである。しかし、これらの平面を時間軸上に並べていくと、個人の異時点における情報処理能力は一定ではなく、平面ごとに最適情報負荷は変化しうることに気づくだろう。もちろん年単位で見たときの成長でもあるが、ここで問題とするのは、一時間、一分、一秒程度の時間尺での話だ。また、平面から視点を九十度回り込ませることで、平面間の差分としての刺激が見えてくる。例えば、同一の最適覚醒状態が続くという意味での”刺激ゼロ”が考えうる。ゆえに、ある時間尺での最適情報負荷の遷移(楽しさの最大化問題)は、必ずしも平面的な最適情報負荷の積み重ねとイコールではない。つまり、最適情報負荷を達成する「play」というのは、平面的な最適化問題であると同時に、現在の情報負荷からの脱却も志向するのだ。

では、そうした「play」を考慮して、小川(2003)のモデルを再構築しよう。まず、小川(2003)では情報処理能力を「遊び」に依らず一定としていたが、ぼくのモデルでは「その遊びにおいて、とりうる行為のなかで、ベターなものを選ぶ能力」と定義する。関数的に説明すれば、第一に小川(2003)の情報処理能力と時間の関数として基礎情報処理関数(とりうる行為のなかで、ベターなものを選ぶ能力)を規定し、そこに「遊び」ごとに異なる特定情報処理関数を噛ませ、言わば合成関数として情報処理能力を定義するということだ。

以上をもとに、小川(2003)の情報負荷理論により、カイヨワの「遊び」の分類を幾何学的に解釈してみよう。百聞は一見にしかずということで、まずは下図を見ていただきたい。

f:id:inmecha:20171229154720j:plain

ここで注意点が四つある。①矢印の動きを志向する「play」が区分に用いられてきたのであり、ある区分の「遊び」が矢印の動きを志向するのではない。②縦の矢印は「特定情報処理能力」の変化、横の矢印は「処理する情報負荷量」の変化であり、その意味するところは全く異なる。③必ずしも全ての「play」が平面的な最適情報負荷を志向するわけではないが、まずは平面で説明するため平面最適の図とした。④図には四つの「play」が描かれているが、それらの相対的な位置には意味はなく、意味をもつのは「最適な情報負荷の45度線に対する人間の初期位置」と「矢印の方向性」と「人間の限界範囲」だけである。

さて、どうだろうか。またしても、分からないようで分かり、分かるようで分からなく、非常にモヤモヤしているのではないだろうか。

では、この図をインタラクティブの観点から眺めてみればいかがだろうか。

最適な情報負荷とは、要するにフィードバックに適度な分散が保たれている状態である。したがって、例えば特定情報処理関数を向上させることで最適な情報負荷へと至るプロセスは、精神-記号インタラクティブが「学習」により物理-記号インタラクティブに漸近するプロセスと同じである。そして、これをアゴン(競争)の「play」と呼ぶのだ。

ここに至り、ようやく宿題の一つ「規則(物理空間と抽象空間をつなぐ関数)とインタラクティブとの理論接合」が解決する。

結論から言えば「行為の先にある物理空間は抽象空間であるが、ひとたび行為を実行すれば抽象空間が物理空間に転換する」ということだ。規則は物理空間と抽象空間をつないでおり、物理空間と抽象空間は混じり合うことはないが、それは平面における法則にすぎない。あらゆる将来は物理空間には存在せず、常に抽象空間として漂っており、行為が実行されることで物理空間となる。

ここで興味深いのは、二つの空間は相互に”へばりつく”ような形で隣接し、規則を通して二つの空間は互いに影響しあうという点だ。そこには順序、すなわち時間の概念が存在する。したがって、規則として影響を与えた抽象空間が、同じタイミングで物理空間に転換することもありうる。ゆえに、二つの空間の変化を"active"と捉え、インタラクティブとの理論接合を行うことは可能である。

さて、残りの三区分について説明しよう(下図は再掲)。

f:id:inmecha:20171229154720j:plain

アレア(偶然)は、処理困難な物理-記号インタラクティブ(その残渣を「運」と呼ぶ)を切り出し、それをごく単純な抽象空間で捉えることで最適情報負荷を達成する。図で読み替えると、縦矢印(特定情報処理能力の変化)はなく、横矢印(処理する情報負荷量の変化)のみで最適情報負荷を達成するのが、アレアの「play」である。なお、結果の不確かさによる空間的な”刺激”が大きいことも特徴である。

ミミクリ(模擬)は、切り出された物理-記号インタラクティブに対して、情報処理能力が勝る場合に生じる「play」だ。すなわち脱我でありつつ自我はあるという「play」であり、プレイヤーの情報処理能力が下回ることはありえない。なぜなら、もしそのバランスが崩れてしまえば、急速に我に引き戻されるか、あるいは完全な脱我となり、どちらにせよ「遊び」は崩壊するからだ。ゆえに常に初期位置は「最適な情報負荷の45度線」の上方であり、縦矢印(特定情報処理能力の変化)と横矢印(処理する情報負荷量の変化)を組み合わせて「最適情報負荷」を達成する。前者は「演技」が現実の小空間であること、後者は「演技」においては自己以外の情報を必要とすること、などを考えればわかりやすい。

イリンクス(眩暈)は、処理困難な物理-記号インタラクティブが突然発生することに特徴がある。ゆえに、その楽しさの大部分は平面間の差分の刺激として発生するのであり、平面で考察できることは僅かである。

以上が、カイヨワの「遊び」の"区分"の幾何学的な解釈である。では最後に「遊び」の”軸”の解釈を組み込み、この理論を完成させよう。

先に述べたように、衝動と理性を両極にとる軸(パイディア-ルドゥス)は、規則の”厚み”ないし"広さ"であるから、抽象空間すなわち「game」のパラメーターだ。また、規則とインタラクティブの理論接合は、未来が抽象空間であるということ、すなわち時間軸の導入により達成された。さらに、上記の「遊び」の区分の幾何学的解釈においては、空間的な刺激(平面間の差分としての刺激)について詳しく言及していない。以上のことから、時間軸を手がかりに「遊び」の”軸”の幾何学的な解釈を試みる。

f:id:inmecha:20171229181640j:plain

こうして図にしてみると非常にわかりやすいが、時間はactiveの積み重ねで進むのであり、両者は意味的に等価である。もちろん「play」も例外ではない。現在のぼくたち自身の情報処理能力を元にして、未来における最適な情報負荷を志向する行為こそ、これまで検討してきた「play」なのだ。

それがピタリとはまると楽しい。これが最適情報負荷の理論である。だが違和感がないだろうか。情報負荷と予測は現在の話であり、それがピタリと嵌まるのは将来の話だ。そして、ここが重要なポイントだが、楽しいと感じるのは「将来の現在」である。

では「将来の現在」という物理空間だけを見つめてみよう。そこにあるのは「行為の結果」と「楽しいという気持ち」の二つだけだ。想起する「予測」や「情報負荷」は過去という抽象空間にある。そして抽象空間は、未来がそうであったように、規則に応じて無数に存在しうる。

この視点こそが、統一理論を完成させるための最後のピースである。それは平面的な最適情報負荷理論の限界、すなわちプレイヤーの情報処理能力により最適な情報負荷が決まるという静的関係に穴を穿ち、これまでの理論を時間のダイナミズムと調和させる。

一言でいえば、ぼくたちは不確実性と遊びたいのだ。理由は実にシンプルで、ぼくたちは第一に不確実性を制御したく、第二にそれが不可能であることが身にしみており、第三にそれでも全能感を味わいたいのである。最適情報負荷の理論は「行為の結果」と「楽しいという気持ち」に対する正しい後づけである。神のみぞ知る確率を引き当てたという「結果」と、それが楽しいという「気持ち」は、必然的にプレイヤーの情報処理能力を人間を超えた高さに位置付ける。このアレア(運)における擬似的な成長は、アゴン(競争)と同じ方向性をもつ。

生きることは物理空間を求め、その軛から逃れられないからこそ、ぼくたちは抽象空間と「play」するのだ。その「game」のための規則は、振る舞いを規定するのではなく、むしろフィードバックを限定することに意味がある。なぜなら、物理空間に対する無能感とは、予測不可能性というより、フィードバックの峻別が不可能なことに起因するからだ。誰も物理世界すべてのフィードバックに対し、主体的にインタラクティブを感じることはできない。だからこそ、ぼくたちは「play」で物理空間を切り出し、抽象空間を「play」するのだ。

さて、そうした観点からパイディア-ルドゥス軸を包摂してみよう。パイディア-ルドゥスの軸は、規則の”厚み”ないし"広さ"である。ルドゥスに寄ることは、抽象空間の情報密度を上げ、フィードバックを明確にし、より「予測」や「情報負荷」に説得力を与える。他方でパイディアは、その自由度でもって不確実性を拡大し、再び「play」を広大な抽象空間へと解き放つ。どちらもフィードバックを明確化する(物理空間から切り出す)という観点は同じだが、ルドゥスに寄れば寄るほど、特定の抽象空間への理解と帰依が求められる。

そして、そんな絶えず変化する抽象空間をラフに統合し、潤滑油のような働きをするのが、精神-意味インタラクティブなのだ。精神-意味インタラクティブは、無常に結果を突きつける記号インタラクティブに対する、一種の緩衝材である。記号インタラクティブは常に精神が物理と比較されるが、意味インタラクティブは果て無く自由である。究極的には(物理法則には)物理-意味インタラクティブは存在せず、仮に物理-意味インタラクティブがあったとしても、その成否を問うことは極めて困難である。また物理-意味インタラクティブがある場合には、特殊情報処理関数を向上させる効果すらある。システム主体が埋め込んだ意味が分かれば、それに紐づく物理-記号インタラクティブの理解も容易となる。たとえば、将棋で最弱の駒が「歩兵」と名付けられていることは、物理-記号インタラクティブの観点からは解釈しえない。

精神-意味インタラクティブは、絶対に確定しえないという、フィードバックの曖昧さを孕んでいる。そして、それを以って精神-記号インタラクティブの理解を助け、あるいはズレを誤魔化し、さもフィードバックが正しい範囲にあるように錯覚させ、ぼくたちを特定の「game」のなかで「play」させ続ける。だからこそ、記号インタラクティブに熟達すれば、曖昧さを孕む意味インタラクティブは消失してしまうのだろう。

さて、これで残された宿題「時間軸と意味インタラクティブとの関係性」も解けた。もうこの時点でお腹満杯だろうが、最後にRPG(Role-Playing Game)を元に、これまでの議論を振り返ってみよう。

 

すべてのビデオゲームRPG(Role-Playing Game)である

概して、ドラクエの主人公は喋らないが、FFの主人公は普通に喋る。では、ドラクエの方がRole-Playingに近いのかと考えると、両作ともベッドに寝転がり腹を掻いてプレイしているので、そこに大した差はないように思われる。では、RPGらしさを何で測るべきかと問われれば、一つの答えとして「難易度のゆるさ」を考えうるだろう。

f:id:inmecha:20171229181640j:plain

大体のRPGはミミクリ(模擬)方向の「play」である。Role-Playingなのだから当然だろう。しかし、誰もが一度は、明確にアゴン(競争)方向に切り替わる瞬間を味わったことがあるのではないだろうか。例えばそれは、連戦連敗のボスと戦うとき、演出をスタートボタンでスキップするとき、ダメージ計算および予測を紙にメモしているとき、It's a beautiful day outside、などなど、そのときフィードバック制御の難しさは最適な情報負荷を優に超えている。そう考えると、よきRPGの一つのあり方として、常に最敵な情報負荷にたゆたうことがあるかもしれない。少し余裕がでればミミクリ方向、少し危なくなればアゴン方向という釣り合いのなかで、物語が進行していくのだ。

この物語という概念は面白い。例えば映画においては、物理-記号インタラクティブはゼロであることを以て、頻繁にイリンクス(眩暈)方向の「play」が発生する。それと同じように、RPGにおける「play」でもイリンクスを志向しうるかもしれない。例えば、佳作RPGのツマラナサはここにあるのかもしれなく、いわゆる「面白いのは知っているがプレイしたことはない」という状態だ。またRPGでは、ミミクリそのものでありながら、アゴンにおいても物語の影響を見出しうる。どう考えても勝てないボスに挑み続けるとき、アゴンとしては当に終わるはずの「遊び」が、アレア(偶然)方向にも行きつ戻りつ、終わることなく続いている。それこそが、先に述べた精神-意味インタラクティブの働きなのだ。HPゲージが尽きたボスが倒れないとき、そこに「game」を維持できるのは、精神-意味インタラクティブがあるからだ。王を取りながら終わらない将棋など、遊べやしないはずなのだから。

さらに面白いのは、精神-意味インタラクティブは、パッケージとしてのビデオゲームに閉じないことだ。例えば、どんなに面白くないと思いつつも、シリーズ順にプレイするという「game」ゆえに駄作をプレイすることもあるだろう。その意味で、すべてのビデオゲームは、ゲームを「play」するというroleを「play」しているのだ。そこの味付けが上手いのがソーシャルゲームなのだろう。どんなに面白いビデオゲームでも、物理インタラクティブが無ければはじまらないのだから。

さて、前節の理論で述べたように、規則は行為ではなくフィードバックを切り出すことに意味がある。こうして概観してみると、ビデオゲームはフィードバックの明確性が極めて高い。だが、それゆえ精神-記号インタラクティブが鋭利になりすぎ、ビデオゲームという「game」を保つための精神-意味インタラクティブが目立つのかもしれない。それこそが、いわゆるゲームのインタラクティブ性と言われるものの正体なのだろうか。

 

参考文献

*1:生きたヒトが完全に静止した状態にあることはないので、もちろん立ち止まったとしてもactiveではある。ただし、足がactiveであることの形態は、物理配置のパターンがが途方もなく存在するがゆえに、実に多様でありうることには注意されたい。

*2:精神インタラクティブを規定する主体は、変化の主体である必要すらない。例えば、子供のお父さんは、異なる精神インタラクティブを(無いという判断を含めて)見いだすだろう。

*3:ぼくは無神論者である。

*4:すべて競争という形のとる一群の遊び(p.46)

*5:遊戯者の力の及ばぬ独立の決定の上に成りたつすべての遊び(p.50)

*6:その人格を一時的に忘れ、偽装し、捨て去り、別の人格をよそおう(p.55)

*7:眩暈の追求にもとづくもろもろの遊び(p.60)

*8:気晴らし、騒ぎ、即興、無邪気な発散といった共通の原理(p.44)

*9:恣意的だが強制的でことさら窮屈な規約(p.44-45)

*10:動詞と形容詞を集合で表す気持ち悪さは気合で乗り越えよう。