めだか第一研究所

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飯間浩明『小説の言葉尻をとらえてみた』読書会の感想

三省堂国語辞典』の編集委員、飯間先生著『小説の言葉尻をとらえてみた』の読書会に参加してきた。

改めて考えると、国語辞典とは奇妙な書物である。外形的に表現すれば「言葉」と「説明」の束なのだろうが、その「説明」もまた「言葉」の束であり、終わりなき循環に囚われている気がする。まぁ後者の束は「文章」であり、そこには言葉の羅列以上の意味があるので、あくまで”気がする”だけなのだが、それでもどこか釈然としないものがある。言葉を言葉で説明するのに、言葉以外の何かが介在している違和感というか。

そんなモヤモヤを抱えたまま帰路についたのだが、以下の記事を読むうちに(素人なりの)答えに辿り着いたので、久しぶりに筆を執ることにした。

logmi.jp

本書および今回の読書会のテーマは「言葉には正しいも間違いもない」であった。何を当然のことをと思われるかもしれない。だが、この観点から国語辞典をジーっと眺めてみると、上述の疑問がスルリと解けるのだから驚いた。

「言葉」を無目的に「説明」することはできないのだ。

カギカッコの使い方がバッド・デザインだが、注目してほしいのは「無目的」である。 飯間先生曰く、戦前には社会的に言葉の正誤が糾弾されることは無く、義務教育での国語テストが転換点になったらしい。これを多少ややこしく解釈すると、言葉の正誤を問うことは、国語テストとしての良し悪しを問うことと同義である。つまり、言葉にはコンテキスト(5W1H+無数のα)に応じた良し悪しがあるが、国語テストな価値観では、それがイチゼロの二値しかないわけだ。では翻って「国語辞典はどんな価値観で言葉を選んでいるのか?」と問いたくなるが、この質問が筋悪だというのが本エントリの趣旨である。

さて本題。問われるべきは「その国語辞典はどんな価値観で書かれているのか?」ではないだろうか。この問いかけに立脚すると、耳慣れていた「言葉には正しいも間違いもない」が異なる世界観を描き出す。

言葉は客体ではない。複数の主体のコミュニケーションの中にのみ存在する、エーテル的サムシングなのだ。

国語辞典はコミュニケーションを仲介するものである。だがそれは、二者間のコミュニケーションに対して普遍的プロトコルを規定するものではない。国語辞典は主体的プレイヤーとして、文字通りコミュニケーションを”仲介”するのだ。例えば、誰かが発した言葉で国語辞典を引くとき、僕は国語辞典の「言葉」ではなく「説明≒文章」を読み、それを以て他者の言葉を解釈している。そんな三者間の関係なのであり、循環的な”気がした”のは言葉を客体的に捉えていたからだ。国語辞典は誰かが誰かのために書いたものであり、紛れもなく生きたコミュニケーションの一形態なのだ。

さて、そんな三者間の関係で国語辞典という”サービス”を考えると、既存のものは紙にしろ電子書籍にしろWebサイトにしろ(寡聞にして)どれも客体的な「言葉」に根ざしたサービスであるように思われる。これに対して、コミュニケーションの仲介を起点とする国語辞典とは何か、すなわち「その国語辞典とコミュニケーションしたいか?」ないし「どんなときにコミュニケーションができると嬉しいか?」という問いを立てるのも一興だろう。例えば、LINEで返事を書いては消してを繰り返しているとき、オススメの言葉をリストアップして教えてくれるような、言葉のパートナーとしての「引かない、調べない」国語辞典はどうだろうか。

それ、ATOKMacの三本指タップで実現してるじゃん、と思わなくもないが、アイツら正誤の価値観に染まってて愛嬌がないじゃないですか。それ、LINEスタンプが寄り添った需要じゃんと言われれば、ぐぬぬなんですけど。

それでも、国語辞典編纂者が監修した言語アシスタントって素敵じゃないですか?と思うくらいには素敵な読書会でした。皆さま楽しい夜をありがとうございました。