宇宙逃避航海日誌

Space Run A-Weblog

『プラネテス』のオールナイト上映が最高だったという話

新宿ピカデリーで行われた『プラネテス』のオールナイト上映会に行ってきた。数年ぶりに見たのだが最高だった。特に「劇場」で「数年ぶり」に見たのが良かった。

まずは「劇場」という話。端的に言えば僕は宇宙にいた。上映ブザーが鳴ってから、スクリーンに映像が映し出されるまでの、数秒間の暗闇はまさしく宇宙だった。そしていざ本編がはじまると、巨大スクリーンと5.1chサラウンドに包まれ、それもまた宇宙だった。目の前に広がる星の大海と、音の伝わらない真空と、それでも背後から聞こえる呼吸音。 Phase7「地球外少女」では、どこまでも広がる月面の海が見えた。Phase16「イグニッション」では、空間喪失症を疑似体験するように汗をかいていた。Phase24「愛」では、徹夜による疲労と空腹も合わさって、終わりの見えない水平線に絶望した。これは絶対に家庭内では味わえない体験だった。やはり劇場はいいなぁ。

次に「数年ぶり」という話をする。僕が初めて本作を見たのは約三年前、確か大学三年生の夏だったと思う。それから現在まで、有り体に言えば、ほぼ人間として成長のない人生を歩んできた。先日はパンツの表裏を逆に履いて出社していたし、むしろ退化している気さえする。だけど、やはり三年という歲月は、良くも悪くも人を変えてしまうものらしい。

良い意味で思い知ったのは、Phase13「ロケットのある風景」での一幕。ユーリの質問「宇宙と地球の境目ってどの辺だと思う?」と、その答え「宇宙とか、地球とか、道しるべとか、あんまり関係無いみたいです」と、それに至るまでの「あなたは物事をなんでもはっきりさせようとしすぎる」の三つのセリフ。この三つのセリフの意味するところが、当時の僕にはよく分からなかった。まんま九太郎みたいなアホ面で、それでも理解できてないのは癪なので、ふーんと意味深に頷くだけだった。だけど今回は少しだけ「わかった」ような気がする。理解できたのではなく、分かったのでもない。はっきりと理を解すのではなく、はっきりと分かつのではなく、ただ「わかった」のだ。

悪い意味で思い知ったのは、Phase17「それゆえの彼」でのウェルナー・ロックスミス。相変わらず面白いキャラクターではあったが、原作漫画版は置いておくとして、前よりも魅力的に思えなくなっていた。それはきっと、アニメ版のキャラクターが「はっきり」しすぎているからで、そう思えてしまったことは、おそらくユーリの話がなんとなく「わかった」ことと表裏一体なのだと思う。

まとめると、数年ぶりに見たことで「はっきりさせない」が「わかった」のだ。文章にすると意味がわからないが、そもそもの文章力とオールナイトでピロピロな頭では、これが精一杯だ。が、もう少し「はっきりさせない」について頑張って書いてみる。

実のところ「はっきりさせない」が「わかった」のは、最後の最後、Phase26「そして巡りあう日々」のあるシーンを見てからだった。それはハチマキと田辺のシーンではない。ハキムとノノのシーンだ。大学三年のときには、何故、ハキムがノノを撃てなかったのか分からなかった。それが今回の上映会で「わかった」のだ。

撃てないですよハキムは。だってノノは、搾取する先進国の人間でも、搾取される途上国の人間でもないから。ハキムの世界観で「はっきり」わかれない人間なんです。しかも月が故郷のルナリアンなんですよ。先進国の豊かさの上には成り立っているんだけど、もう先進国の国民という切り方はできない。それでも、だからといって、ハキムは自分を撃つこともできない。そこで自殺するのは「はっきり」しすぎでしょ。だから撃てないですよ。国境に縛られている彼にノノは撃てない。だけど"改心"することもできない。

要するにそれが「つながっている」ということなのだと思う。愛してもいいし、愛さなくてもいいし、夢に身を捧げてもいいし、捧げなくてもいいし、孤独になってもいいし、孤独から逃げてもいいし、それが変わってもいい。だけど、なんにせよ、どう選ぶにせよ、自分が「つながっている」ことは変わらないのだ。そして、それは生きているとか死んでるとか、それすらも関係ないのだと思った。素晴らしい作品をありがとうございました。ご冥福をお祈りします。