宇宙逃避航海日誌

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声優「も」凄い傑作/『昭和元禄落語心中』『昭和元禄落語心中-助六再び篇-』の感想

これまでの人生で、たった一度だけ寄席に行ったことがある。まだ小学生だった頃、僕は父親に連れられて、三遊亭好楽三遊亭楽太郎の二人会を観に行った。

残念ながら良い思い出ではない。地元の寂れた文化会館は、小さなハコにも関わらず空席が目立ち、三遊亭好楽の「ピンクの小粒、コーラック」という口上がややウケだったこともあって、とにかく居心地が悪かった。いざ本編が始まっても、落語の知識も古典の教養もない当時の僕はとにかく退屈で、開始早々に爆睡した右隣の酒臭いオッサンの轟くようなイビキも不快で、早く帰りたいなとか、聞く気がないなら帰れよとか、自分のことを棚に上げたり下ろしたりしながら、そんなことばかり考えていた。

けれど、小さくとも人間一人には広すぎる舞台の上で、薄暗く冷え切った客席に向かって身一つで喋り続ける噺家の姿は、なぜか影絵のように強烈に脳裏に焼き付いている。

あたしの落語は誰のための落語でもねぇ。てめえのためにやってたんだ。
菊比古/『昭和元禄落語心中』6話

それっきり落語には縁もゆかりもなかったが、たまたま見始めた『昭和元禄落語心中』が非常に面白く、続く『昭和元禄落語心中助六再び篇-』まで一気に観てしまった。いやはや素晴らしい完成度であった。長く語り継がれる作品となるのは間違いない。

ただ、インターネットに溢れる感想をいくつか読んでみたのだが、本作を「声優が凄い」という評価で語るのには少し思うところがある。そんなわけで、感想と合わせて駄文を書き綴ることにした。なおネタバレ注意。

昭和元禄落語心中』というアニメシリーズは、落語を題材にした作品ではあるが、描いているのは落語家(とそれに関わる人々)の人生である。だから、落語として云々という批判は的外れである。また、声優が凄いという評価で語るのも片手落ちである。なぜなら、繰り返すが、本作は落語家の「人生」を描いた「アニメ」だからだ。

まず「人生」について語ろう。本作では、八代目有楽亭八雲(菊比古)の一生を軸として、様々な人間の生き様が描かれる。主要人物は、誰も彼もが粋でありながら、人間らしい情念に溢れ、孤高な求道者に見える八雲にも、楽観的な天才に見える助六にも、恋に生きるみよ吉にも、各々の強さと弱さが丁寧に描かれている。そんな世界にあって、情念と後悔に絡め取られた「八代目有楽亭八雲」が誕生するのが1期の『昭和元禄落語心中』であり、底抜けに明るい与太郎との出会いによって「八代目有楽亭八雲」が崩されていくのが2期の『昭和元禄落語心中助六再び篇-』である。

人間の一生を描ききった名作は数あれど、死んでから成仏するまでを丸々1話の尺で放送した作品は稀有だろう。他者の死を背負い生きた人間の物語において、死後の世界でベラベラ話して和解するというのは、実のところ節操のない話ではある。ただ、全くそう思えないほど魅力的なのは、落語という背景があり、語られる言葉が小気味よく、なにより再開した三人の顔が憑物が落ちたように晴れやかだからだろう。そして、そんな黄泉の国の演芸場で、生前どこまでも「自分のため」に落語を追求した八代目有楽亭八雲は、最後に『寿限無』を演じた。

こうして例をあげるまでもなく、本作において落語は象徴的なシーンで演じられている。これは、逆に、僕たちは落語をそれ単体で楽しんでいるわけではないということだ。あえて言うまでもないが、本作における落語はあくまで物語の流れの一部、すなわち落語家の人生の一部として演じられており、それがプライベートな部分とリンクするから魅力的なのである。

だからこそ「声優が凄い」という評価で語るのには違和感がある。

本作は声優が落語に挑戦した音声作品ではない。様々な才能を集結して作られたアニメーション作品だ。落語という個人技を「動き」と「語り」に分解して「カメラアングル」や「BGM」と合成し、さらに「人生」という文脈に乗せて一つの作品に仕上げたのだ。そのどれが欠けても、これほど素晴らしい映像作品には成り得なかった。

もちろん声優の演技にケチをつけたいのではない。恐ろしいほどの名演であった。ただ、本作の魅力は、あくまで落語家の「人生」を描いた「アニメ」であると言いたい。

転じて、決して比較するわけではないが、身一つの個人技で客を沸かせる落語家という職業は、やはり当方もないのだと思う。当時の僕には楽しめなかったけれど、それでも噺家の姿が心に刻まれたのは、そうした凄味を幼心に感じたからなのかもしれない。