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宇宙逃避航海日誌

Space Run A-Weblog

ひとりで生きていけるようになっても、みんなで生きていいじゃない。/『けものフレンズ』の感想

色んな人が好きに楽しめる間口の広さをもっているようで、実際は不要なものを徹底的に切り捨て、巧みに「見るべきポイント」に誘導し、そこに少ない資源を全力で投入した稀有な作品。それがアニメ『けものフレンズ』の凄いところだと僕は思っている。

ジャパリパークという場所は「自分らしくあることの摩擦」がない世界で、そこに生きるフレンズは他者や世界と触れ合うことはあっても、個体同士が(それほど)生々しくぶつかりあうことはない。多様性が内面ではなく外面だけに表れた物語なのであり、考察や議論の余地は「生き方」とか「決断」ではなくて、ただ彼女たちを取り巻く世界に対してのみ向けられる。本作が視聴者に提示するのは、人生観とかダイバーシティーとか倫理とか、否応にも視聴者個人の経験や内面が反映されるような「問題」ではなく、世界設定の謎など、あくまで個人の知識や発想が答えにつながる「問題」のみなのだ。

テーマとして多様性の尊重を扱いつつ、個人の経験や人生観が反映されない作りになっているのは見事と呼ぶほかない。僕はクリエーターではないので実際のところは知る由もないが、普通は自分の見解とか意見をキャラクターを通じて語りたくなるものじゃないのか。そうでなくとも、例えば問題そのものをありのまま描くなどして、どんな形であれ人間の内面に関わる「問題」を描きたくなるんじゃないのか。

ある意味で「真に多様性を認めるためには対話ではなく衣食住の整備が必要」というメッセージを読み取れないこともないが、これはあくまで無理矢理な解釈であり、そんなことを描いた作品ではない。結局は最後までセルリアンが「のけもの」だった本作は、テーマとして多様性の尊重を"扱い"つつ(フレンズによって得意なことは違う)絶対に許容できない相手に対する折り合いは描かなかった(意図的に描かなかったのだと思う)。

そもそも多様性をキチンと描くというのは不可能に近い。あるマイノリティを描けば、それからも外れてしまう人や、本当は外れているのに含まれて(いると思われて)しまう人が、掬ったはずの手のひらからポロポロと溢れおちて、結局は誰も残らないなんてことになってしまう。というか、誰もが何かの意味で必ずマイノリティな部分はあるのだし、そういう個の断片がインターネットで瞬時に可視化される世界に僕たちは生きているのだ。良くも悪くも。

動物をモチーフにするということは「身体的なわかりやすさ」をキャラクターに反映するということで、もう少し多様性の問題に踏み入って描いていれば、おそらく悪い意味で炎上事案になっていたと思う。基本的に「1アニマル1フレンズ」だったし(PPPも全員が違う属のペンギン)。まぁコレは予算の都合として許されるだろうけど。

繰り返すが、本作はそのあたりのバランス感覚が異常に優れていた。良い意味で「楽しくない」部分を徹底的に排除して(通過儀礼をクリアすれば)誰でも楽しめる作りになっている。世界設定についても、考察の余地を残しているが、別に考えなくても楽しめるという親切設計である。少人数小規模のプロジェクトだからこそ、ここまでコントロールできたのだろう。すごい。

—ここまでは全体のハナシ。ここからは最終回の感想。ネタバレ注意。—

第1話では逃げ惑う弱者でありながら、様々なフレンズとの交流を通じて成長し、第11話では身を呈して仲間をかばう強さをみせ、最終回では木に登れる強者であることを示した主人公かばん氏。非日常での経験を通して成長した主人公が、日常へと帰る(または新しい非日常へ旅立つ)ことで物語の幕が降りるのが普通の物語なのだろうが、本作では普通に「非日常」が続いていくことが示唆された(元も子もないことを言えば、かばん氏はジャパリパークで誕生したので本作の世界が「日常」なのだけど)。

完全にお別れモードに入っていたので面食らった。面食らって、呆然として、僕はエンドロールをぼんやりと眺めていた。

ひとりで生きていけるようになっても、みんなで生きていいじゃない。

そして、ふと、そんなことを思って、夜中の2時すぎに爆笑してしまった。

だって、かばん氏は強く逞しくなったのだけど、よく考えれば強さも逞しさも不要なのだ。ジャパリパークという場所は「自分らしくあることの摩擦」がない世界であり、セルリアンの襲撃を除いては「存在することの摩擦」もない世界である。誰もが「フレンズによって得意なことは違う」と言ってくれて「得意なことがなくても生きていける」ような世界で、かばん氏が木登りをマスターする意義は皆無である。

分業と比較優位は確かに社会を豊かにしてくれるのだけど、さらなる経済発展の先に無条件で誰もが毎日ジャパリまんを食べられる世界がくれば、各自の得意なことは必須でなくなる。活かす必要もないし、得意でないことを頑張ってもいい。

でも、それは世界に対して自身の成長が影響を及ぼさない(自身のプラスがなくとも豊かな生活は確保されている)ということでもある。

だけど、誰かが成長する姿は美しく素晴らしくて、それは物理的には無意味でも、きっと意味のあることなんだと思う。だから、かばん氏が木登りをマスターしたことは、決して無駄ではないと僕は思うのだ。

それに、存在することの摩擦から開放されて、生きる上で物理的に他者に頼る必要がなくなっても、人間には誰かと一緒に生きることに価値を見出す存在であり続けてほしい。

だって、こんなにも一つのコンテンツで盛り上がることができるのに、それが生き残る術にすぎないというのでは、あまりに悲しすぎるじゃないですか。