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宇宙逃避航海日誌

Space Run A-Weblog

超時空ヒーロー早乙女アルト/アニメ『劇場版マクロスF 虚空歌姫〜イツワリノウタヒメ〜 & 恋離飛翼 〜サヨナラノツバサ〜』におけるヒロインの対比構造の考察

シェリル・ノームの新曲が出るらしい。相変わらずエロくて何よりである。

劇場版マクロスF 虚空歌姫〜イツワリノウタヒメ〜』と『劇場版 マクロスF 恋離飛翼サヨナラノツバサ〜』は個人的に非常に思い出深い作品だ。本作は僕が初めてネットに自分の感想を書いた作品なのである。もう当時のブログは消えてしまったが、パソコンをサルベージしたところメモが見つかったので、この機会に大幅に書き直して再びネットの海に放り投げてみることにした。

本エントリでは「なぜアルトはシェリルを選んだのか?」および「マクロストライアングラー仮説における本作の特異性」という二つのテーマで劇場版マクロスFの感想を述べる。以下、まずは本作における二人のヒロインの対比構造を明らかにすることで「なぜアルトはシェリルを選んだのか?」を分析する。次いでマクロス作品全体に通底するマクロストライアングラー仮説を紹介し、本作がマクロス作品の新たな地平を切り拓いたことを明らかにする。

 

なぜアルトはシェリルを選んだのか?

本作の二人のヒロイン:シェリル・ノームランカ・リーには様々な対比構造がある。本節では、そのうち以下の3つの側面から「なぜアルトはシェリルを選んだのか?」を考えていく。

シェリル ランカ
①象徴するもの 非日常 日常
②恋のルーツ 現在 過去
③性的な役割 男性→女性 女児→母

 

①象徴するもの:非日常と日常

本作において、シェリルはTV版と同様に突如アルトの日常に現れた女性であるが、ランカは同じ学校に通う幼馴染となっている。すなわちTV版とは異なり「シェリル=非日常/ランカ=日常」という対比構造があるのだ。

主人公・早乙女アルトは物語を通して非日常と日常のどちらを選ぶか選択を迫られる。

そして、ここが本節のポイントなのだが、アルトの「非日常/日常」は「歌舞伎の舞台/普通の生活」であり「逃げてきた場所/逃げ場」でもあるのだ。つまり「シェリル/ランカ」という選択は「非日常(歌舞伎の舞台)/日常(普通の生活)」という世界の選択でもあったのだ。

本作においてアルトは空でカブくことを通して非日常を選択したのであり、ヒロインとしては非日常の象徴たるシェリルを選んだのである。

 

②恋のルーツ:現在と過去

劇場版のランカちゃんは不遇である。劇場版においては、シェリルとアルトの恋愛描写の多さに比べて、ランカとアルトの描写はごく僅かだ。

しかし、そうであるにも関わらず、少なくとも前編イツワリノウタヒメの時点ではランカがアルトに好意をもっていることに関して不自然さは感じられず、むしろシェリルがアルトに惚れる方が唐突なイメージがある。

その理由は、おそらく視聴者が想像しうる過去の有無だ。先に述べたように、劇場版ではランカは幼馴染として描かれている。「幼馴染」という言葉に含まれる情報量は驚異的であり、これだけで異性に好意を抱いていることを納得させることができるのだ。他方でシェリルは赤の他人であり、好意を抱く過程を作中で描く必要がある。

アルトとシェリルの間には「過去は無いが現在がある」のであり、アルトとランカの間には「過去はあるが現在は無い」のである。言い換えるなら、シェリルが惚れているのは「現在のアルト」であり、ランカが惚れているのは「過去の延長線上のアルト」なのだ。

嘘である。この対比構造は物語の終盤に音を立てて崩れ落ちる。無情にもシェリルとアルトの間にも「過去」があったことが明かされるのだ。しかも初恋の相手&人格形成の基となる出会いというビッグバン級の過去である。

『たく、今頃気づくなんて』という台詞で勝敗は決した。シェリルとアルトの間には「過去」も「現在」もある。対してランカちゃんには「過去」しかない。繰り返すが劇場版のランカちゃんは不遇である。

また、①の側面と合わせて考えると、惚れている対象が「大過去および現在のアルト/過去の延長線上のアルト」という対比構造も見えてくる。そして、それは「非日常のアルト/日常のアルト」という対比構造でもあるのだ。

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(実線は劇中で描かれた内容/破線は視聴者が補完する内容)

劇場版のランカちゃんは不遇である。むしろ不遇なのが魅力ですらある。

放課後 別れたら 明日はもう会えないかもしれない
ランカ・リー/放課後オーバーフロウ

先に述べたようにアルトが選んだ世界は「非日常」であり、ランカの好きだった日常のアルト、学生としてのアルトはもういないのだ。

 

③性的な役割:女性と母

性的な役割は本作を語る上で重要な概念である。本作において、アルト・シェリル・ランカの三人は物語を通じて性的な役割を変化させていく。アルトは女性から男性、シェリルは男性から女性、ランカは女の子から母へと変化するのだ。

アルトについては分かりやすい。優男風で民間軍事会シャーの姫であったアルトが男性になる瞬間は、やはりミシェルの『もうお前を姫とは呼べないな』のシーンだろう。良いシーンである。

シェリルは当初の男勝りな振る舞いから、徐々に女性としての弱さを見せていくという変化がみられる。また、前編後編のOPライブシーンに共通する二面性のようなものも、シェリルのジェンダーの両面性を表していると言えるかもしれない。

対して、ランカのライブシーンは終始ランカそのものであるか、虹色クマクマのように女の子がアイドルになるという演出だけである。ランカには(不遇な胸以外に)男性的な部分が欠けている。
その代わりランカちゃんにはあふれる母性がある。ランカの愛は複数の対象に向けられており、同輩を殺したバジュラにすら向けられている。実際に、ビーチのシーンでは自分の恋愛よりバジュラを優先して行動している。つまりランカは女性ではなく母へと成長していくのだ。

また、物語の前半はシェリルの男性的部分がアルトに影響を及ぼし、後半はアルトの男性的部分がシェリルの女性的部分を満たすなど、アルトとシェリルの間には性的な役割を相互に補完する関係がみられる。他方で、ランカはミシェルの言葉やバジュラとの共感など、アルト以外との交流によって(三角関係に対して)自己完結的に成長していくのである。ふぐぅ。

 

まとめ

以上が本節の分析である。では最後に本節のまとめとして「アルトがランカを選んでいたらどうなっていたか?」について考えてみる。

もしアルトがランカを選んでいたら、それはアルトが「非日常」ではなく「日常」を選んだということになる。一見、これは珍しいことではないように思われる。しかし本作のアルトにとって「日常」は 「非日常」からの逃げ場であり、それを選ぶということは逃避を選んだことになり、成長が描かれないことになる。

成長が描かれないということは、すなわち物語の始まりと終わりで何も変わらなかったということだ。本作で描かれているのは②の図で言うところの「アルトにとっての非日常」であり、ランカを選ぶという選択は物語そのものの否定になってしまうのである。

もしランカを選ぶのであれば、アルトにとっての「日常」に特別な意味や価値が生じていなければならず、(回想という形であれ)絶対に「日常」が描かれていなければならない。したがって、アルトにとっての「非日常」が舞台となる劇場版マクロスFという作品において「日常」であるランカを選択するという選択肢は生じ得ないのだ。

 

マクロストライアングラー仮説における本作の特異性

マクロストライアングラー仮説とは「マクロスの三角関係の決着は、片方が世界を救う公的存在となり、残った2人が私的存在としてゴールイン」という僕の自説だ。

公的存在 私的存在
超時空要塞マクロス リン・ミンメイ 早瀬未沙
マクロスプラス ガルド・ゴア・ボーマン イサム・ダイソン
マクロス7 熱気バサラ ガムリン木崎
マクロスF(劇場版) シェリル・ノーム ランカ・リー

初代マクロスにおいては"最終回"の27話「愛は流れる」で、リン・ミンメイがボドルザー艦隊をヤック・デカルチャーして世界を救う一方、一条輝は早々と戦線離脱して早瀬未沙とイチャコラする。マクロスプラスにおいては、ガルド・ゴア・ボーマンが命と引き換えに(究極の滅私で)災厄ゴーストX9を討ち取る一方で、イサム・ダイソンは颯爽とミュン・ファン・ローンを救い出し晴れてヨリを戻すことになる。マクロス7は心で感じろ。アレの解説は無理だ。

本作においては、最後に命を燃やして歌いきり昏睡状態に陥ったシェリルが公的存在、五体満足で生き延びたランカが私的存在と呼べるだろう。

矛盾である。これではランカとゴールインすることになってしまう。
歌い燃え尽き真っ白になるシェリル、涙ながらに手をつなぐアルトくんとランカちゃん、沈む夕日に重なる影、そんな二人の上にそびえる「完」の文字。マクロストライアングラー仮説を採用するには、このエンディングでなければ駄目なのだ。

そうではない。本作では早乙女アルトもまた公的存在となったのだ。

本作は(僕の知る限り)初めて公的存在同士が結ばれたマクロス作品である。

正しいマクロストライアングラー仮説は「マクロスの三角関係の決着は、世界を救う公的存在同士、あるいは私的存在同士がゴールイン』だったのだ。これまでのマクロス作品は私的存在同士のゴールインであった。ゆえに最後は寄り添う二人が描かれていた。しかし本作は公的存在同士のゴールインだ。だから、世界とバジュラの双方を救うために身を賭した二人、アルトの帰還とシェリルの目覚めは示唆されるに留まっているのである。

 

おわりに

よくよく考えると元のマクロストライアングラー仮説(私的存在同士がゴールイン)はロクでもない話なのだ。他人に公的存在という負担を強いておきながら、残った二人が救われた世界でイチャコラするんですよ。なんとも器の小さい話ではないですか。

対して本作では身を賭して世界を救った者同士が結ばれるのだ。凄いぞ早乙女アルト。TV版でスタイリッシュ二股宣言をした男とは思えない成長である。