宇宙逃避航海日誌

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シェパード大尉よ、ソープに行くなかれ/『虐殺器官』(小説)のラストシーンの考察

伊藤計劃の『虐殺器官』が映画化されたということで、遅まきながら読んでみた。結論から述べると、冒頭の死者の国の夢の描写に惹き込まれ、これは面白いなと一気に読み終えてしまったのだが、最後まで読んだ感想は「よく分からないな」であった。捉えどころがないというか、とにかく腑に落ちず、微妙な読後感であった。

再読してから違和感の正体に気づいたのだが、本作は二律背反なものをそのまま描いている作品なのである。すなわち、様々なグレーゾーンを描いている作品であり、現実を切り取るのではなく、ありのまま描写したような作品なのである。したがって、物語としては連続していても、登場人物の思想や行動が一貫していない(ように読んでしまった)ため、妙な読後感が残ったのであった。

以下、グレーゾーンの代表例として「物質と肉質の狭間」、本筋の解釈として「空虚であり俗々しい二人」というテーマで本作を論じ、自分なりにラストシーンの解釈を述べたいと思う。なお、ネタバレを含むのでご注意を。

 

テーマ1「物質と肉質の狭間」

死者の国の夢の描写は大好きなのであるが、初読時には一体なんの話をしているのか理解できなかった。特に意味が分からなかったのが以下のやりとりである。

「そうね、でもどこかで受け入れなくてはいけないわ」…(中略)…「自分が物質だということを、かな」「自分が肉だということを、よ。わたしの息子さん。無神論者だとか言ってるわりには、肝心なところの受け入れができていないんだから、もう」(No.1227)(引用はkindleのページ数)

意味がわからない。しかし、わからないなりに解釈してみると、物質は冷たく不滅なモノ、肉は温かく滅するモノではないかと思った。では、両者の狭間にあるグレーゾーンとは何だろうか。

侵入鞘(イントルード・ポッド)である。当初はあくまで機械的な物質として描かれる侵入鞘であるが、物語の後半、外を覆う人工筋肉が養殖された動物の実際の肉であることが判明する。機械のパーツでありながら、肉の塊である人工筋肉。物質である機械は滅びず回収されるが、肉である人工筋肉は土に還る。

最初は冷たい棺桶として登場し、最後の作戦では水中生物として描かれる侵入鞘。さすがにコレを生物と想像することはできないが、機械と肉塊の狭間にあるという点では、戦闘適応感情調整された特殊部隊も同じである。物質の側から肉質に近づくか、肉質の側から物質に近づくかの違いに過ぎず、両者はグレーゾーンで混じり合う。

物質と肉質のグレーゾーンは、侵入鞘や戦闘適応感情調整された特殊部隊であり、それは主人公シェパード大尉にとっての現実世界である。では、その極北には何があるのだろうか。

物質の極北には、ジョン・ポールが好んだ風景、すなわち廃墟と化した地球の姿がある。そこに肉質なものは何もなく、ただ整然と物質だけがある。

肉質の極北には、シェパード大尉が夢見る風景、すなわち死者の国がある。これでもかと執拗に描かれる死体の生々しい描写に加え、石畳の下には赤く波打つ人工筋肉まで登場するのである。

ぼくは、その光景を想像して、不思議な安らぎに包まれている自分に気がついた。/それは、ぼくが見る死者の国の夢と、そう変わらない風景だったからだ。(No.1634)

相反する世界でありながら、シェパード大尉は廃墟と化した地球の姿を死者の国と同じと捉えている。これは何を意味しているのだろうか。その答えが示唆されるのは第五部のクライマックスシーンだ。

にもかかわらず、それは物ではなかった。それはルツィア・シュクロウプだった。それは単なる肉の塊ではなく、あくまで「ルツィア・シュクロウプの死体」だった。(No.4587)

シェパード大尉にとって、肉の塊としての死体は物と同じなのであった。彼の中に死体は肉なのか物質なのかといったグレーゾーンはそもそも存在しない。シェパード大尉は両者を同じものと捉えるがゆえに、静謐な廃墟のビル群から物言わぬ死体(ただしママ以外)の群れと同じ安らぎを得るのである。

 

テーマ2「空虚であり俗々しい二人」

シェパード大尉とジョン・ポールは、どことなく似た雰囲気をもっている。それは「空虚であり俗々しい」という二律背反な性質である。

彼らは自分を語るとき、常に世界や人類や進化といった広い文脈から語る。そこに自身の意思や力強さのような主観的な要素は薄く、ある種、徹底的に自己(というか人類)を客観視した物言いをする。

他方で、彼らは非常に俗っぽいのである。シェパード大尉は、ありもしない母の視線を感じたり、事故にあったことを自分への復讐と考えたり、母親に対し必ずしも好ましい感情を抱いていない一方、夢の世界では子供のように甘えている。また、数回しか会ったことのないルツィアを女神のように信仰して勝手に贖罪を求めたり、最終作戦では「自分の意思でジョン・ポールを殺しに行く」と言いながら、その実、ルツィアに会いたいだけなのがミエミエだったりする。ジョン・ポールにしても、指名手配テロリストなのに昔のオンナにひょっこり会いに行った挙句に巻き込んで殺してしまうのだ。なんだコイツら。

彼らのセリフの大半は前者、すなわち人類進化論とでも言うべき文脈で語られる。また、彼らは常に他者や世界を自分の脳内でしか捉えていない(bilityの世界で生きていると言うべきか)傾向があり、目の前の人間と議論はすれど会話はしていないのである。

「お前、アレックスのジョークを聞いたことがないのか」
 思わずウィリアムズをちらりと見やる。確かにそのとおりだ。
 …(中略)…
 思い返せば、アレックスとは神様の話ばかりしていた気がする。(No.838)

 彼らの世界観は極めて独りよがりであり、愛情は自己の脳内イメージを介して抱かれる。すなわち、彼らは最初から最後まで自己完結的であり、疑いなく利己的な人間なのである。

 

ラストシーンの解釈

エピローグとは物語の締めである。本作を通じて、シェパード大尉はどのように変化したのだろうか。

軽く他のサイトの考察を読んでみた限りでは、虐殺のムードに感染したという意見が多いようである。しかし、虐殺の文法は「ヒトの攻撃性を個体レベルで増長させるものではない」(No.4421)と本文中で明言されている以上、それは無いのではないかと思う。

僕は「シェパード大尉はシンプルになった」と感じた。それは最後の二段落を読んでの感想である。

外、どこか遠くで、ミニミがフルオートで発砲される音がする。うるさいな、と思いながらぼくはソファでピザを食べる。/けれど、ここ以外の場所は静かだろうな、と思うと、すこし気持ちがやわらいだ。(No.4748)

人類やら進化やら利他的行動やらの理屈を捏ねくり回してきた人間とは思えないシンプルさである。ソープにでも行ったのかお前は。

あのシェパード大尉が人類進化論的に自己や他者のあり方を規定することなく、ただ「単純」に存在して心のままに感想を述べているのだ。ちなみに、この前の段落では罪を背負うだの辛い決断だの何だの嘯いているが、これはオベンチャラであろう。

前節で述べたように、シェパード大尉は極めて自己完結的な人間である。加えて、彼の周囲の人間は全て死んでしまった。すなわち、彼はエピローグにおいて本当の意味で「単一」になったのである。

作中でルツィアは以下のように述べている。

生物の複雑性は、必然的に利他行為をとる傾向にあるの(No.2400)

なるほど、シンプルであれば利己的なのは当然である。

 

終わりに

虐殺を実際に主導した人々は「なぜ自分が虐殺を行ったのか理解できない」という恐怖をもつが、読者にはそれが虐殺の文法のせいであると理解できる。他方で、虐殺それ自体を先導したシェパード大尉やジョン・ポールは「なぜ自分が虐殺を先導するかを明確に語る」のであるが、その言葉はどこか空虚であり、読者に本当の理由は理解できない。

そういえば、作中で心理カウンセラーがこう述べていた。

理性はほとんどの場合、感情が為したことを理由づけするだけです(No.3123)

理性的に説明できるということは、感情が為したことなのだろう。

確かに地獄は頭の中にあったのだ。

 

追記

色々と考えてみたものの、結局のところ、単に作者は虐殺の描写を描きたかっただけではないのかという気もする。死体の描写が妙に生々しすぎるのである。虐殺の描写を描きたいという衝動に、理性が理屈の物語を付与したのだろうか。