宇宙逃避航海日誌

Space Run A-Weblog

『生殺し・オブ・ザ・デッド』

今年の春からコツコツと書いていた小説『生殺し・オブ・ザ・デッド』を削除した。取り敢えず書いて公開して後から修正するという、寡聞にして本邦初の「アジャイル執筆」ではじめた本作だが、ついぞ完成することなく歴史の闇に葬り去られることとなった。事実上の処女作で十万字超えを目指したのが根本の問題かもしれないが、ロストヴァージンにこそ雄々しい男根を求めるのが乙女心なのだから仕方がない。命短し恋せよ乙女、股を開けばユニバース、というヤツだ。

閑話休題。話の続きを書けなくなってしまったのは、外形的には仕事が本格化して時間が無くなったからだ。しかし直接の影響としては、環境変化にともなう内面の変化が極めて大きい。もうあの頃の気持ちを抱いて書き続けることはできないし、過去からの引力に身を預けて物語を紡ぐことに楽しみを見いだせない。そんなわけで、筆を置くことにした。

さて、ここからが本エントリの本題である。

奇特な読者諸君の一部には以前お話したのだが、常に物語全体が変化し続けるアジャイル執筆は、それ自体が一つの作品である。言い換えれば、拙作『生殺し・オブ・ザ・デッド』は、小説ではなく「小説を書くというドキュメンタリー」であった。

というのは真っ赤な嘘である。

有り体に言ってしまえば、本作は就活からの逃避で書きはじめた作品でした。つまり本作は「逃避として小説を書き続けるドキュメンタリー」だったのです。

 

『生殺し・オブ・ザ・デッド』(完)

飯間浩明『小説の言葉尻をとらえてみた』読書会の感想

三省堂国語辞典』の編集委員、飯間先生著『小説の言葉尻をとらえてみた』の読書会に参加してきた。

改めて考えると、国語辞典とは奇妙な書物である。外形的に表現すれば「言葉」と「説明」の束なのだろうが、その「説明」もまた「言葉」の束であり、終わりなき循環に囚われている気がする。まぁ後者の束は「文章」であり、そこには言葉の羅列以上の意味があるので、あくまで”気がする”だけなのだが、それでもどこか釈然としないものがある。言葉を言葉で説明するのに、言葉以外の何かが介在している違和感というか。

そんなモヤモヤを抱えたまま帰路についたのだが、以下の記事を読むうちに(素人なりの)答えに辿り着いたので、久しぶりに筆を執ることにした。

logmi.jp

本書および今回の読書会のテーマは「言葉には正しいも間違いもない」であった。何を当然のことをと思われるかもしれない。だが、この観点から国語辞典をジーっと眺めてみると、上述の疑問がスルリと解けるのだから驚いた。

「言葉」を無目的に「説明」することはできないのだ。

カギカッコの使い方がバッド・デザインだが、注目してほしいのは「無目的」である。 飯間先生曰く、戦前には社会的に言葉の正誤が糾弾されることは無く、義務教育での国語テストが転換点になったらしい。これを多少ややこしく解釈すると、言葉の正誤を問うことは、国語テストとしての良し悪しを問うことと同義である。つまり、言葉にはコンテキスト(5W1H+無数のα)に応じた良し悪しがあるが、国語テストな価値観では、それがイチゼロの二値しかないわけだ。では翻って「国語辞典はどんな価値観で言葉を選んでいるのか?」と問いたくなるが、この質問が筋悪だというのが本エントリの趣旨である。

さて本題。問われるべきは「その国語辞典はどんな価値観で書かれているのか?」ではないだろうか。この問いかけに立脚すると、耳慣れていた「言葉には正しいも間違いもない」が異なる世界観を描き出す。

言葉は客体ではない。複数の主体のコミュニケーションの中にのみ存在する、エーテル的サムシングなのだ。

国語辞典はコミュニケーションを仲介するものである。だがそれは、二者間のコミュニケーションに対して普遍的プロトコルを規定するものではない。国語辞典は主体的プレイヤーとして、文字通りコミュニケーションを”仲介”するのだ。例えば、誰かが発した言葉で国語辞典を引くとき、僕は国語辞典の「言葉」ではなく「説明≒文章」を読み、それを以て他者の言葉を解釈している。そんな三者間の関係なのであり、循環的な”気がした”のは言葉を客体的に捉えていたからだ。国語辞典は誰かが誰かのために書いたものであり、紛れもなく生きたコミュニケーションの一形態なのだ。

さて、そんな三者間の関係で国語辞典という”サービス”を考えると、既存のものは紙にしろ電子書籍にしろWebサイトにしろ(寡聞にして)どれも客体的な「言葉」に根ざしたサービスであるように思われる。これに対して、コミュニケーションの仲介を起点とする国語辞典とは何か、すなわち「その国語辞典とコミュニケーションしたいか?」ないし「どんなときにコミュニケーションができると嬉しいか?」という問いを立てるのも一興だろう。例えば、LINEで返事を書いては消してを繰り返しているとき、オススメの言葉をリストアップして教えてくれるような、言葉のパートナーとしての「引かない、調べない」国語辞典はどうだろうか。

それ、ATOKMacの三本指タップで実現してるじゃん、と思わなくもないが、アイツら正誤の価値観に染まってて愛嬌がないじゃないですか。それ、LINEスタンプが寄り添った需要じゃんと言われれば、ぐぬぬなんですけど。

それでも、国語辞典編纂者が監修した言語アシスタントって素敵じゃないですか?と思うくらいには素敵な読書会でした。皆さま楽しい夜をありがとうございました。

目覚まし時計に宗旨変え

平成も終わらんとする時代に、スマホの数百倍は劣るレガシーデバイス「目覚まし時計」を手に入れた。特に深い理由はなく、懐かしさで何となく買ってみただけなのだが、これが驚くほどスッキリと目が覚めた。別に特別な機能があるわけでもない、2,000円程度の置き電波時計にも関わらず、である。スマホのアラームで十分だと思っていたが、釈迦も掌返しで宗旨変えするほどの衝撃を受けた。

僕は睡眠の専門家でもないし、あえて調べるほどでもないので、駄仮説だけ置いておくと「起きるときの動作か否か」が両者の決定的な差なのではないかと思った。言い換えると、目覚まし時計を止める動作は起床時のみのものだが、スマホのアラームを止める動作は就寝時と同じであり、それゆえ目覚まし力(めざまし-ちから)が違うということだ。もうお分かりかと思うが、①スマホを手にし、②画面をみて、③タップして、④投げ捨てる(⑤また手にしちゃう)というアラーム停止時の一連の動作は、寝るときとほぼ同じである。それは単に外形的な話だけではなくて、例えば小さな画面に焦点を集中させることなど、細胞などの動きも含む。

その意味でいえば、目覚まし時計らしき動作を継承しつつ、もっと起床に特化したデバイスだって作れるはずだ。それが目覚まし時計業界の活路ではないかと思う一方、ナチュラル・ボーン・スマホアラーム世代には一切響かないのかもしれなく、こと文化やビジネスというものは難しいと痛感する。うーん、やっぱちゃんと調べるかな…。雑な括りではUI/UX、もう少し細かく見ればアフォーダンス、換骨奪胎的な飛び道具としてはメタセマンティクス等の知見も活かせるのかも。バイタルデータ分析は隆盛だけど、こういう視点で睡眠or目覚ましサービスを設計してる企業いないですかね。

そんなことを考えつつ、今日も二度寝した。それじゃあ駄目じゃんSHUNPU-TEI-SHOTA-DEATH。

垂直統合の逆転裁判、水平分業のダンガンロンパ、ありがとう王泥喜くん/『逆転裁判6』の感想

今更ながら『逆転裁判6』をクリアした。いやはやシリーズの集大成として非常に素晴らしい出来だった。もし貴方が『逆転裁判4』や『逆転裁判5』で心が離れてしまったのなら、ぜひ本作までプレイしていただきたい。成歩堂くん真宵ちゃんコンビの復活を目玉としながらも、各章ごとに『逆転裁判4』以降のキャラクターに見せ場と成長があり、まさに「逆転裁判シリーズ」の集大成と呼ぶに相応しい作品であった。

とはいえ「逆転裁判シリーズの集大成といえば?」という問いがあれば、ほとんどの人は『逆転裁判3』と答えるだろう。過去と現在、絡み合う人々、それらが織りなす奇怪な事件の数々、それらが一つに収束するクライマックス。疑う余地のない名作である。

www.youtube.com

そんなわけで「逆転裁判6こそ集大成」などと書けば『異議あり!』と叫ばれそうだが、少しだけ『待った!』をかけさせてほしい。

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ターンAガンダムの登場人物で歌う「ようこそジャパリパークへ」

けもフレ2期(というかたつき監督)方面が騒がしいようだ。色々なことを色々な角度から思わなくもないが、とりあえずガッツリ便乗することにした。その成果物が以下の動画(ターンAガンダムの登場人物で歌う「ようこそジャパリパークへ」)である。

幸か不幸か明らかに気流に乗り損ねた気もするが、自分なりに良くできたと思うので歌詞も掲載しておく。

和訳つき歌詞

ウィル・ゲイム/ヤコップ/アグリッパ
(Welcome to/ようこそ/ジャパリパーク!)

ロラン/マリガン/ギャバン/ポゥ・エイジ
(今日も/ドッタン/バッタン/大騒ぎ)

タルカ/ヤーニ/ラルファ・ゼノア/フラン・ドール
(高ら/かに/笑い笑えば/フレンズ)

キャンサー/シッキネン
(喧嘩/して)

スエッソン・ステロ/ジョン/ジョー
(すっちゃかめっちゃかしても/仲/良し)

キエル・ハイム嬢/ジョゼフ/ムロン/ハリー
(けものは居ても/のけ/もの/は居ない)

コンドラフト/アニス/クワウトル
(本当の/愛は/ここにある)

ドナ/ミドガルド/テテス・ハレ/ダイスケ
(ほら/きみも/ 手をつないで/大冒険)

グエン・サード・ラインフォード/ディラン・ハイム
(Welcome to ようこそ/ジャパリパーク!)

キース/アナン/ミラン/ホレス/アジ
(今日も/ドッタン/バッタン/大騒/ぎ)

セント/カキト/ジェシカ/トニーニョ
(姿/かたちも/十人/十色)

ディアナ/レア/ブルーノ
(だから/魅かれ/合うの)

ヨロル/レーチェ/セシリー
(夕/暮れ/空に)

リリ・ボルジャーノ/カシム/ローラ
(指をそっと/重ね/たら)

ハメット/ルル/メシェー
(はじ/め/まして)

ギンガナム/ソシエお嬢さん
(君をもっと/知りたいな)

『プラネテス』のオールナイト上映が最高だったという話

新宿ピカデリーで行われた『プラネテス』のオールナイト上映会に行ってきた。数年ぶりに見たのだが最高だった。特に「劇場」で「数年ぶり」に見たのが良かった。

まずは「劇場」という話。端的に言えば僕は宇宙にいた。上映ブザーが鳴ってから、スクリーンに映像が映し出されるまでの、数秒間の暗闇はまさしく宇宙だった。そしていざ本編がはじまると、巨大スクリーンと5.1chサラウンドに包まれ、それもまた宇宙だった。目の前に広がる星の大海と、音の伝わらない真空と、それでも背後から聞こえる呼吸音。 Phase7「地球外少女」では、どこまでも広がる月面の海が見えた。Phase16「イグニッション」では、空間喪失症を疑似体験するように汗をかいていた。Phase24「愛」では、徹夜による疲労と空腹も合わさって、終わりの見えない水平線に絶望した。これは絶対に家庭内では味わえない体験だった。やはり劇場はいいなぁ。

次に「数年ぶり」という話をする。僕が初めて本作を見たのは約三年前、確か大学三年生の夏だったと思う。それから現在まで、有り体に言えば、ほぼ人間として成長のない人生を歩んできた。先日はパンツの表裏を逆に履いて出社していたし、むしろ退化している気さえする。だけど、やはり三年という歲月は、良くも悪くも人を変えてしまうものらしい。

良い意味で思い知ったのは、Phase13「ロケットのある風景」での一幕。ユーリの質問「宇宙と地球の境目ってどの辺だと思う?」と、その答え「宇宙とか、地球とか、道しるべとか、あんまり関係無いみたいです」と、それに至るまでの「あなたは物事をなんでもはっきりさせようとしすぎる」の三つのセリフ。この三つのセリフの意味するところが、当時の僕にはよく分からなかった。まんま九太郎みたいなアホ面で、それでも理解できてないのは癪なので、ふーんと意味深に頷くだけだった。だけど今回は少しだけ「わかった」ような気がする。理解できたのではなく、分かったのでもない。はっきりと理を解すのではなく、はっきりと分かつのではなく、ただ「わかった」のだ。

悪い意味で思い知ったのは、Phase17「それゆえの彼」でのウェルナー・ロックスミス。相変わらず面白いキャラクターではあったが、原作漫画版は置いておくとして、前よりも魅力的に思えなくなっていた。それはきっと、アニメ版のキャラクターが「はっきり」しすぎているからで、そう思えてしまったことは、おそらくユーリの話がなんとなく「わかった」ことと表裏一体なのだと思う。

まとめると、数年ぶりに見たことで「はっきりさせない」が「わかった」のだ。文章にすると意味がわからないが、そもそもの文章力とオールナイトでピロピロな頭では、これが精一杯だ。が、もう少し「はっきりさせない」について頑張って書いてみる。

実のところ「はっきりさせない」が「わかった」のは、最後の最後、Phase26「そして巡りあう日々」のあるシーンを見てからだった。それはハチマキと田辺のシーンではない。ハキムとノノのシーンだ。大学三年のときには、何故、ハキムがノノを撃てなかったのか分からなかった。それが今回の上映会で「わかった」のだ。

撃てないですよハキムは。だってノノは、搾取する先進国の人間でも、搾取される途上国の人間でもないから。ハキムの世界観で「はっきり」わかれない人間なんです。しかも月が故郷のルナリアンなんですよ。先進国の豊かさの上には成り立っているんだけど、もう先進国の国民という切り方はできない。それでも、だからといって、ハキムは自分を撃つこともできない。そこで自殺するのは「はっきり」しすぎでしょ。だから撃てないですよ。国境に縛られている彼にノノは撃てない。だけど"改心"することもできない。

要するにそれが「つながっている」ということなのだと思う。愛してもいいし、愛さなくてもいいし、夢に身を捧げてもいいし、捧げなくてもいいし、孤独になってもいいし、孤独から逃げてもいいし、それが変わってもいい。だけど、なんにせよ、どう選ぶにせよ、自分が「つながっている」ことは変わらないのだ。そして、それは生きているとか死んでるとか、それすらも関係ないのだと思った。素晴らしい作品をありがとうございました。ご冥福をお祈りします。

おそらく僕は『マクロスΔ』のファンなのだという話

おそらく僕はTVアニメ『マクロスΔ』のファンなのだと思う。放映終了から一年も経つのに、未だに「ワルキューレ」の曲は頻繁に聴いているし、ぼんやり駅のホームで「一度だけの恋なら」が流れた日には、フレイアよろしく元気に飛び出して高速トレインにわがままなキスをしそうになる。また、昨日はマクロス音ゲー『歌マクロス スマホDeカルチャー』を徹夜でプレイしてしまったし、なんなら早く「いけないボーダーライン」の譜面を開放したくて、所得の限界点を塗り替えるほど課金してしまった。

では、何故こんなに歯切れが悪いのかと言えば、アニメ本編の出来がルンピカビームだったからだ。序盤、というか第一話は文句なく最高だった。だが、メッサーが微妙なタイミングで死んだくらいから、テンションは絶対零度θノヴァティックになった。あの盛り上がりは何だったのか。せつなさはこの胸のAXIA。

そんなダイスキでダイキライな『マクロスΔ』の劇場版の製作が決定した。めでたい。

さて不安である。なにが不安なのか。もちろんストーリーである。

僕は折に触れて「何故マクロスΔのストーリーはルンピカだったのか」を考えてきたのだが、現時点での答えは「歌を中心に据えすぎたから」と「五人組ユニットだったから」の二つだ。ただ、少しややこしいのだが、これら自体が絶対悪な要素なのではない。この二つの要素が「従来のマクロスの物語構造」と非常に相性が悪いというだけのことなのだ。

結論から書けば「ワルキューレの五人がバルキリーに乗って歌って戦う」というストーリーを僕は見たかった。以下、そんな妄想に至った理由を書き連ねてみる。

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