旧・めだか第一研究所

ゆるふわ嗜好×ゆるふわ思考×ゆるふわ試行

めだか第一研究所は移転しました

めだか第一研究所はnoteに移転しました。

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移転にともない、当ブログは更新を停止します。長年のご愛顧ありがとうございました。

よければ移転先 or Twitter@inmechaにて、今後もよろしくお願いします。

なお、ブログの記事をnoteに移すのは面倒ですし、ここは跡地として残しておくつもりです。はじめましての方は、引き続き、お楽しみください。

映画『ダンス・ウィズ・ミー』はミュージカルではなく盆踊りとして楽しむべきという話

和製ミュージカルこと、映画『ダンス・ウィズ・ミー』を観てきた。大炎上した某ドラクエ映画と異なり、微熱まじりの酷評が聞こえている本作。結論から言うと「楽しかった」のだが、あまり「ミュージカル」を意識しすぎると楽しめないかもしれない。

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ホラーやエログロ以上に苦手な人が多い映画ジャンル、それが「ミュージカル」だと思う。ミュージカルの話になると、三人に一人は「わたしは苦手なんですよね〜」という人間が現れ、お決まりの「唐突に歌いはじめるのが意味不明」という刃が振り下ろされる。ぼくは現実の日常会話も唐突で意味不明だと感じるので、歌うくらいが丁度いいと思うのだが、そう切り返すと大抵は場が凍りつく。

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とはいえ『アナと雪の女王』は大ヒットした。その理由は諸説(ディズニーは例外、TVで激推しされた、歌が流行した等)あるだろうが、個人的には『Let It Go』がコテコテの演歌であることがポイントではないかと考えている。華やかな街を追われた独り身の女性が、雪国の新天地で自分を奮い立たせる歌。その力強さと危うさが、幼い頃より『津軽海峡・冬景色』を聞いてきた我われの心を打ったのではないか。

ミュージカルという舶来の文化を、舶来のまま楽しむ必要はない。本作は歌も踊りもブロードウェイ基準なら不合格かもしれないが、決して下手ではない。スタイル抜群で楽しそうに歌う三吉彩花と、非スタイル抜群だがエネルギッシュに踊るやしろ優のコンビは、見ていて自然と笑みがこぼれる。ダラダラと心理を台詞で説明するシーンもなく、ロードムービーとしてテンポよく進むので、見ていて飽きることもない。

これはミュージカルだなんて構えずに、盆踊りだと楽しめばいい。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損、のスピリットだ。腕を組んで「さてさて、どうですかな」なんて踏ん反り返ってれば、そりゃ何だって楽しくないよ。

映画版ドラクエVが「アワー・ストーリー」だったという話

初めてドラクエVにふれる人が、絶対に楽しめないリメイク作品にしたこと。映画版ドラクエVこと『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』は、これまでドラクエVに親しんできたファンへの仕打ち以上に、これから好きになるかもしれない人たちを突き放したことが救いがたい。

ファンへの仕打ちについては、すでに様々な罵詈雑言が飛び交っているので、特に書き足すことはない。ぼくは原則として「よかったこと」を主題に作品レビューを書くと決めているので、汚点について延々と語るのもポリシーに反する。だから、別に「ブオーン小さいし弱いし喋り方キモくない?」とか「ゲマがコミカルすぎて畜生感が薄くない?」とか「初プレイはPS2版なんすけどSFC版がそんなに偉いんすかふ〜ん」とか、そんなことは書かない。書かないからな。

それに、リメイクで原作の思い出が壊れること、それ自体は悪いことではない。新しい人たち(特に新しい世代)に伝えるには、新しいパッケージが必要になることもある。例えば、幅広いオーディエンスに届けるために、そんなに演技のうまくないTVタレントを起用することもあるだろう。物語を二時間で収めるために、重要なシーンや設定をカットすることもあるだろう。そのせいで従来のファンが失うものはあるけれど、それがなければ出会う機会がなく、初めて作品にふれた人が得られるものもあるはずだ。

加えて、インターネットやOTTサービスが普及した現代では、簡単に過去の作品へとアクセスできる。リスペクトは必要だが、原作を忠実に再現する必要はない。

だけど、リメイクを掲げるのなら、せめて語り継ぐ作品にしてほしい。原作のコアが次の世代へと受け継がれる作品にしてほしい。親が子供に「ユア・ストーリー」だと託せるような、あるいは親は認めてないけど子供自身が「マイ・ストーリー」だと思えるような、そんな作品にしてほしい。

そんな思いを踏みにじるように、本作はどこかの誰かの「アワー・ストーリー」でしかなかった。共通体験をもつ俺たちのストーリー、ゆえにこれは君のストーリー、という歪なロジックで、オジサンがオジサンのために作った映画だった。

その原作が「親子三代の物語」なんて、ご冗談でしょう。

『天気の子』にはバニラトラックが必要不可欠だったという話

スネに傷をもつ女性、しかも自分がその片棒を担いでしまった女性に、ぼくたち男性はどのように向かい合えばいいのか。新海誠の最新作『天気の子』は、世界の分断が可視化された現代社会では、むしろセカイ系こそが大人になるために必要なことなのだと、バニラトラックで高らかに歌い上げた作品なのではないか。就職してから辞めていたタバコを吸いながら、ふと、そんなことを考えた。

以下ネタバレ注意。

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森羅万象 vs. ぼく/『死にがいを求めて生きているの』の感想

ぼくは多分、戦いたいんだな。

誰に何を言われたわけでもないのに、ふと自覚することがある。ちょうど体温と同じで、熱くも冷たくもない、輪郭の曖昧な闘争心。5W1Hがゴッソリ抜け落ちていながら、確かに自分を駆動させているコイツのことを、ぼくは心肺機能の一種だと捉えている。

そんなぼくの心臓を、朝井リョウ氏の新刊『死にがいを求めて生きているの』*1が鷲掴みにした。本書では、いつも等身大で落ち着いた智也と、何かと目立ちたがる雄介という二人の青年の関係性を通して、平成という時代の「対立」が描かれている。競争が排除され、個性が尊重される時代は、どうしてこうも生き苦しいのか。怖いもの見たさと、たどり着く答えの知りたさで、久しぶりに徹夜で読み切ってしまった。

物語の結末では、世界は互いに不都合なものに満ちていて、そうした相互作用と「対峙」する以外に道はない、という事実が提示される。この結末には膝を打った。競争が社会として排除されても、二人の人間が一つの椅子には座れない、という物理法則は変わらない。そんな他人がひしめき合う地球のうえで、ぼくたちは似通った価値観における行為の競争をやめる代償に、似通った行為による価値観の競争をはじめてしまったのだ。

いくらオンリーワンを叫んだところで、所詮は人間のやること。行為のパターンは限られているし、すぐに模倣されてしまう。だけど、行為の位置づけや紡がれる物語は、無数に生み出すことができる。君だけのオリジナルな人生を歩もう。監督・脚本・主演はすべて自分だ。

ただし、それ以外の全ては自分以外に依存している。当然ながら、誰も何をも言うことを聞いてくれない。オファーを出したら無視するくせに、呼んでもないのに来たかと思えば、こちらの撮影を邪魔するなと言う。いや、口にはだしていないけど、あの目や耳や態度や耳鳴りや匂いや法則は間違いなくそうだ。嗚呼、現代社会は、どうしてこうも生きにくいのだろうか…。

こうした苦しみの原因は「個人」という幻想にあるように思う。

肉体は他人から独立して存在している。よくよく考えると、単にこれだけのことが、個人という幻想を正当化していることに驚く。

個人という幻想を成り立たせるには、逆説的だが他人が必要となる。集団があるから個が定義できるのであり、他者と比較するからオンリーワンを示すことができる。個性的であることと没個性的であることは、どちらも他人に依存しているという意味では同じである。

点と点があると、その間を線で結ぶことができる。あるいは境界線を引くことができる。囲むこともできる。二本目を引いてもいい。どのような線を描くかは自由だし、目を閉じて大きく深呼吸をすれば、誰でも何度でも描き直すことができる。

たけど、点を打たないこと、線を描かないこと、そこに意味を見いださないことは、誰にもできはしない。自分には何もないと思うのは、単に「自分」の定義がおかしいからだ。

自己実現などとは言うものの、実際には実現が自己に先立つ。サーフィンをせずにサーファーとなることは難しいが、サーフィンをしていながらサーファーとならないことも難しい。そこには自分の行為や願望だけでなく、他者からの眼差しがあるからだ。

個人という幻想は、そうした動的な均衡として成立している。個人が対立を生みだすのではなく、対立が個人を生みだし続けているのだ。それは人間同士の対立だけではなく、自然や概念や機械や感情や天気や何やらとの対立でもある。公共の場では静かにしろなんて、馬鹿を言ってはいけない。地球はそもそもうるさくて、そんな混沌とした喧騒の一部として、ぼくたちは生きているんだから。

体温と同じ温度の闘争心。5W1Hがゴッソリ抜け落ちていながら、確かに自分を駆動させているコイツのことを、ぼくは心肺機能の一種だと捉えている。そうすることで、コイツは生きるための手段であり、目的ではないことを胸に刻む。価値ある人生を歩むことは、手段でも目的でもなくて、ただの結果なのだから。

エースコンバット最新作が装甲騎兵ボトムズすぎて異能生存体の孤独を味わったという話

コックピットの内部まで徹底的に再現された戦闘機が、四次元空間から数十発のミサイルを召喚してバカスカ撃ちまくり、あらゆる敵兵器を灰燼に帰しながら優雅にトンネルを潜り抜ける。そんな"超本格的ヒコーキごっこ"が楽しめるエースコンバット・シリーズの最新作「エースコンバット7 スカイズ・アンノウン」が発売された。

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12年ぶりのナンバリングタイトルであり、最新のグラフィックに加えてVRモードも搭載。コレクターズエディションには、過去作の歴史を記したフルカラーのブックレットが付属している。

気づいたときには撃墜されていて、俺はあの核の爆心地でコントローラーを握ってたんだ。

知ってるか? 初期に選べる難易度は3つに分けられる。はじめて遊ぶヒヨッコのためのEASY、標準的な難易度のNORMAL、普通じゃねぇ難易度を求める奴が飛びつくHARD。俺は――

NORMALを選び、地獄をみた。すげえ難しい。今作マジで難しい。10年ほどブランクがあるとはいえ、これまで4と5とZEROは全ミッションACEでSランク取得してきたのに、ボコスカ落ちるし落とされる。

でも俺はNORMALでプレイし続けた。世界に難易度なんて必要ないかもしれない。でも無くすだけで変わるんだろうか。確かめたかったんだ、NORMALの意味を。

そして、なんとかクリアして、ようやく気づいた。これは従来のエースコンバットではない。今作は装甲騎兵ボトムズなのだ。

以下ややネタバレ注意。

今作の主人公トリガーは、様々な部隊を渡り歩いて名を上げていく。オーシア国防空軍では、第508戦術戦闘飛行隊メイジの2番機、第444航空基地飛行隊スペアの15番機、第124戦術戦闘飛行隊ストライダーの1番機、そして最後は国境なきパイロットとして戦争を終結に導く。メイジ隊では一兵卒でありながら世界を揺るがす大事件に巻き込まれ、流れ着いたスペア隊では懲罰兵としてならず者と共同戦線。ストライダー隊では荒廃した世界のサバイバルの果てに宿敵ミスターXとの決闘にケリをつけ、最後は一人の兵士として神なる力をもつ機械生命体との世界を賭けた戦いに勝利する。

おわかりいただけただろうか。運命の女性フィアナと再開したウド編、ジャングルの奥地で傭兵たちとともに泥沼の戦争を繰り広げるクメン編、レッドショルダーに灼かれた星でパーフェクトソルジャー・イプシロンとの決着をつけるサンサ編、世界を支配するワイズマンに中指つきたてるクエント編。装甲騎兵ボトムズの主人公キリコ・キュービィーの歩んだ旅路と全く同じである。

そしてボトムズと同じように、ストーリーやキャラクターは懲罰部隊編が一番おもしろい。毎度戦果を過剰申告する2番機カウント、PCに貼られたパスワードを盗み見る情報屋6番機フルバンド、日々是賭博の7番機ハイローラー、THEジャイアンなマッスル懲罰兵8番機チャンプ、まさかの政治犯11番機タブロイド、なんだかんだカウントに言いくるめられる我らがAWACSバンドックなど、愉快な仲間たちが勢揃い。こちらの呼び名が「○○○○○○殺し」なのも痺れる。どう考えても死ぬほかないミッションに駆り出され、愚痴を吐きながらも多大な戦果をあげるが、帰還すると問答無用で命令違反で独房入りという鉄板パターンには毎回わかっているのに笑わされた。あと欺瞞邀撃ってなんだよそれ。

また今作では、味方や僚機がほぼ役にたたないのだが、これも懲罰部隊の設定にあっている。ミッション中、敵はほぼ自機を狙ってくるし、味方はほとんど敵機を落とさない。4への先祖返りとも言えるけど、5のラーズグリーズ小隊の皆さんや、ZEROのピクシーの働きに慣れてしまうと、どうしてもポロ(あの馬に乗ってやるやつ)やってんじゃねーんだぞと叫びたくなる。だが懲罰部隊だと考えればやむなし。お前もっ! お前もっ! お前もっ! 俺の為に死ねっ!

(脇道なのに)断トツで懲罰部隊の設定とキャラが立っているため、本筋はすこし物足りなく思える。ストーリーで描かれる以上に、血肉の通う戦闘機や地上部隊より、自然現象やUAV(Unmanned aerial vehicle)との戦いだった。4つの部隊を渡り歩くわりに、ミッション数は20程度なので、さほど仲間キャラに感情移入できない。ミハイおじいちゃんもそんなに因縁に思えないし、あんまりヨイショされてもエース感がないし、むしろドライな懲罰部隊との離別のほうが心にくるものがある。

人間同士の(対等な)生命のやり取りではなく、ただ鉄の棺桶に乗り込んで、生存確率の極めて低い作戦に赴く。もちろん誰も助けてくれないが、たまに流れ弾で死ぬ。だがトリガーは死なない。

今作のエースは、たぶん歴代のどのエースより人間離れしているけど、いちばん人間味がない。

そんなことを考えながら、徹夜でクリアした朝方にVRモードを試してみて、度肝を抜かれた。スゲー。これはスゲーよ。キャノピーを見上げながらロールするのが、こんなに楽しいとは思わなんだ。正直ナメてました。スゲー。なにがスゲーかといえば、エアコンバットしていたら秒でゲー吐いたことですね。やはり歴代エースは人間じゃない。

めだか第一研究所

ブログの名前を「めだか第一研究所」に変更した。これまでの「ゆるふわ髄想録」は、意味も含めて結構お気に入りだったけど、あんまり五感フレンドリーではなかった。特に後半のゴチャゴチャ漢字が胃もたれするし、変換するのも面倒だ。そんなわけで、元号も変わることだし、ブログ名を変更することにした。

また、カクヨム支部を閉鎖して、新たにnote支部を設立した。長文エントリはブログ、短文や小説はnoteで書き分けていくつもりだ。カクヨムで書きかけていた「尻子玉オデッセイ」はnoteで再開予定。

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現在のコンテンツは「誰かの日記」という毎日更新シリーズ。過去を忘れがちなので、日記をつけたいけど、自分のだと続かないので、誰かの日記をつけることにした。たまに著者が死ぬのはご愛嬌。

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Writoneというサービスが、企画コンセプトとマッチしそうなので、こちらにも転載。オープンβ版なのでどうなるかはわからないけど、奇文に声を当てたい奇特な方がいれば、存外の喜びである。

www.writone.jp

引き続き、よろしくお願します。