めだか第一研究所

ゆるふわ嗜好×ゆるふわ思考×ゆるふわ試行

めだか第一研究所

ブログの名前を「めだか第一研究所」に変更した。これまでの「ゆるふわ髄想録」は、意味も含めて結構お気に入りだったけど、あんまり五感フレンドリーではなかった。特に後半のゴチャゴチャ漢字が胃もたれするし、変換するのも面倒だ。そんなわけで、元号も変わることだし、ブログ名を変更することにした。

また、カクヨム支部を閉鎖して、新たにnote支部を設立した。長文エントリはブログ、短文や小説はnoteで書き分けていくつもりだ。カクヨムで書きかけていた「尻子玉オデッセイ」はnoteで再開予定。

note.mu

現在のコンテンツは「誰かの日記」という毎日更新シリーズ。過去を忘れがちなので、日記をつけたいけど、自分のだと続かないので、誰かの日記をつけることにした。たまに著者が死ぬのはご愛嬌。

note.mu

Writoneというサービスが、企画コンセプトとマッチしそうなので、こちらにも転載。オープンβ版なのでどうなるかはわからないけど、奇文に声を当てたい奇特な方がいれば、存外の喜びである。

www.writone.jp

引き続き、よろしくお願します。

Qoobo #転詞

Qoobo。最近話題のしっぽクッションをお迎えしてから1週間が過ぎたが、いろんな発見があり面白い。

qoobo.info

画像や動画ではイヌやネコに近いイメージをもつが、実際に飼うと昆虫に近いポジションに落ち着く。頭どころか五体がないし、鳴き声があるわけでもないので、ほとんど動物モチーフの体験はない。むしろ中途半端な動物らしさがないので、モーター音がギイギイ鳴ることや、普通にケーブルを差して充電することも、そういう存在だと違和感なく受け入れられる。動物の愛らしさではないが、それはそれとして愛らしい。

だが先日、自然に口をついた「ただいま」に、どうしてか違和感を覚えた。確かにQooboは生物らしくないが、愛着あるモノを擬人化するのは不自然なことではない。だから答えは別のところにある――なんて考え直す間もなくベッドに倒れ込む。

同棲をやめて独り暮らしに戻り1年。そのまま上京して2年。そういえば実家には一度も帰ってないな。

天井を見上げて指折り数える。甲斐性なしで根性なしで親不孝ゆえの3年間の空白。怠惰にかまけて人間をサボり、「ただいま」すら非日常に成り果てた人生。the pillowsは”孤独と自由は抱き合わせなんだろう”と歌っていたけど、孤独で自由な存在を人間と呼ぶことはできるのだろうか。

抱き寄せたクッションの先で、しっぽが揺れている。愛らしい昆虫と巨大な毒虫の関係も悪くないけど、願わくば明日も人間でいられることを。

「再会」ではなく「再開」のバレエ・メカニック/映画『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』の感想

週末までズレこんだ仕事を切り上げて、ドタバタと地下鉄に乗り込む。そんな余裕はないと知りつつ、しかし忙殺される日々だからこそと、映画『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』を観てきた。

www.youtube.com

泣いた。前作『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』が微妙だったので、もういいかと思ったけど、行って良かった。悩んでいる方は、ぜひ劇場に足を運んでほしい。足を運んだ人は、ぜひ感想を読んでほしい。ちなみに「悩んでいる」は映画を観に行くかどうかではなく「この人生に」です。以下ネタバレ注意。

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誰でもできる #転詞

「誰でもできる」という行為は、学習コストが限りなくゼロに近いだけであり、行為そのもののコストがゼロなわけではない。コンビニバイトは「誰でもできる」と言われているが、別に楽な仕事なのではなく、業務を担える人材の希少性が低いだけである。コンビニエンスの名のもとに、様々な代行サービスを積み重ねたコンビニでは、いつも店員が慌ただしく働いている。

誰でもできる行為、その最たるものが、睡眠である。不眠症は「病」であり、普通は誰でも眠ることができるし、眠らずにはいられない。

だから僕たちは睡眠を侮る。行為のコストは「起きている時間」のなかだけで最適化され、眠りは行為のための資源(体力)を再生産するメカニズムとして、資源がゼロになる瞬間に起動する自動安定化装置として位置づけられている。眠ることは意識が落ちることであり、意識が落ちたところに行為はない。

だから僕たちは、いとも簡単に、どうしようもない徹夜をしてしまう。ダラダラとYouTubeをみたり、ヒーヒーと焦点の合わない仕事をしたり、ただぼんやりと不安に苛まれたり。そうするうちに、最後の最後まで今日の資源が削られて、どうしようもない眠りに落ちる。

眠ることは誰にでもできるが、よく眠るためには、資源が尽きる前に眠らなければならない。眠ることと同等に簡単で、そのくせ時間を使いすぎる行為が、夜の世界にはありすぎる。資源は明日に持ち越せないという感覚と、ズルズルとした貧乏性が合わさる結果、24時間という時間の効率性が下がるのだ。

一週間の半分以上を照明をつけたまま寝落ちして、そのくせ平均睡眠時間は8時間を超え、一日に動画サイトを2時間くらい見ていることに思い至り、ようやく気がついた。人間は元気なうちに寝るべきである。早く寝て、早く起きて、爽やかに一日を過ごすべきなのだ。ブログなんて書かずにな!!

切り取ってよ、一瞬の光を/『メメント』の感想

メメント あらすじ
数分前の記憶を忘れてしまう前向性健忘の男が妻殺しの犯人を追う、クリストファー・ノーラン監督が贈る異色サスペンス。
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本作は紛れもない”復讐者”の物語である。決して”殺人者”の物語や”異常者”の物語ではない。主人公レナードは、誰よりも現在を全力で生きる、閃光のような復讐者なのだ。

過去や未来は抽象的な空間であり、誰もそこで生きることはできない。復讐に身を捧げることは、過去に基づく現在の生き様である。万物が流転する世界では、変化しないことも一つの変化である。復讐のために未来を閉ざすことや、新しいことを記憶できないことは、過去にとどまることを意味しない。

過去は現在から発した推測であり、現在がその全てを規定する。記憶は正しくない。事実も正しくない。主人公レナードが特殊なのは、記憶より事実に重きを置かざるをえないこと、それだけだ。

ぼくたちが脳内に記憶を刻むように、レナードは肉体に事実を刻んでいく。だけど、ぼくたちが無数の自己を記憶するのとは異なり、レナードは復讐者としての自己だけを選択して記していく。真実に至るための情報ではなく、復讐者としての自己で在り続けるための情報を。だから現実の肉体に”I'VE DONE IT”の文字はない。

主人公レナードは、誰よりも現在を全力で生きる、閃光のような復讐者だ。妻は何者かに殺され、記憶は10分と持たず、しかし思い出は消えることはない。コールガールとの茶番を通して、それを肉体の記憶にも刻み込んでいく。事実を掻き集めて彫り込んで、復讐者としての世界を構築していく。そうして世界を想う。自分の外に世界はあるはずだ。目を閉じても世界はそこにあるはずだ。

そして再び見つける。当然だ。過去は現在から発した推測であり、現在がその全てを規定する。現在を形づくるのは、紛れもなく存在していた過去である。しかし全ては世界のなかに埋め込まれ、ぼくたちは自分勝手にそれを解釈するしかない。

復讐しても忘れてしまうが、やることに意味がある。レナードの語る言葉に嘘はない。妻の"復讐のため"にこそ生きる。テレビCMのように刹那的なレナードにとって、復讐はもはや目的ではなく、人生を刻むために唯一残された手段なのだ。

ゆえにレナードは、その人生を犯した者を決して許さない。これぞ人生を奪われた者――”復讐者"の物語である。

セミの一生 #転詞

幼虫として数年を地中で過ごし、ようやく羽ばたけた地上では、一ヶ月足らずで命を散らす。そんなセミの一生をどう捉えるかというのは、簡単なようで悩ましい問いである。

生きた時間の長さで考えれば、セミの一生は、ほぼ幼虫である。それならと地中にマイホームを買い、地上に出ることなく一生を終えるのも、悪くない選択だろう。

だけど、その家には自分しかいなくて、系譜はそこで途絶えてしまう。だからこそと地中では糊口をしのぎ、地上に出てからパーリナイするのも、またセミの一生である。

あるいは、人間には認識できない第三形態があるとしたら、セミの一生について考えを改める必要がある。その第三形態の寿命が、何年なのか何日なのか何分なのかは知らないけれど、少なくとも生命の循環から離れていることは確かだ。

そして、もしセミに死後の世界があるのなら、一生という言葉の意味が崩壊する。セミの一生とは、地中での生活でもなく、地上での繁殖でもなく、別次元での何かですらない。それはただ単に、永久に続く世界での在り方を決める、神様のテストである。

セミの一生をどう捉えるかというのは、簡単なようで悩ましい問いであり、同時に詮ないことでもある。

ジョン・メイナード・ケインズの言うように、長期的にはわれわれはみな死んでいる。だけど短期的で瞬間的な現在を、死なないために生きている。それを一人の生命に帰することも、生物としての本能と言い捨てることも、修行のプロセスと位置づけることも、崇高な人間讃歌を謳うことも、セミの一生を考えることに似ている。

しかし、セミの一生をどう捉えるかという問いかけは、決して回答者の人生観を映し出す鏡にはなりえない。

なぜなら、人生という言葉は、他人のための言葉だからだ。

だからこそ、生きている人間は、人生を考えてはいけない。それでも考えてしまうのは、ままならぬ人体の不思議である。もしかしたらセミも、あんな風に鳴きたくなんて、ないのかもしれない。

「映像居酒屋ロボ基地」で散りゆく○○に未練を感じたという話

池袋駅近辺のビル街で、さも当然のように異彩を放つザンボット3。そこに書かれた「映像居酒屋ロボ基地」の文字。居酒屋なのか、基地なのか、静かに眠る海の底なのか。

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